コロンビアのアフリカ系コミュニティを訪ねて③


トゥマコの中心地からビエント・リブレ地区と反対側へ車で10分ほど進むと広大な海軍の基地が広がる。兵士からパスポートチェックを受けてさらに進んだ先にヌエボ・ミレニオ地区はあった。この地区ではAfro MiTuと呼ばれる若者のHipHopグループが活動している。


トゥマコ訪問の数日前、このグループが『Decimos no a la violencia(私たちは暴力にNoと言う)』という曲を歌っている映像がYouTubeに上がっているのを柴田が見つけた。トゥマコでこうした主張をかかげることはとてつもなく勇気のいることであり、こうした若者たちが出てくることはこれまで考えにくいことだったという。


ソーシャルワーカーのドラさんにAfro MiTuについてたずねたところ、彼らの活動はよく知っているらしかった。ドラさんはさっそくヌエボ・ミレニオ地区の教会のスタッフに電話をしてくれ、その数時間後に私たちは現地を訪ねることになったのだ。
 


ドラさんが電話をかけた相手はドイツ出身のウリさんというシスターだった。指定された場所は色鮮やかな壁画が描かれた建物で、ウリさんはそこで幼児を対象とした教育活動をしていた。この日はクリスマスの行事があったようだ。私たちは20〜30人の幼児でいっぱいの部屋に通してもらい、簡単な自己紹介をした。めずらしいアジア人に子どもたちは興味津々で集まってきて、私もいろいろ話をしてみたかったが間もなく帰宅の時間となった。


子どもたちと入れちがいにAfro MiTuのメンバーがひとり、ふたりとやってきた。集まったメンバー6人のうち3人は大学生でふだんはトゥマコから遠く離れた大学の近くで暮らしているという。トゥマコから大学に進学するケースは非常に稀と聞いていたため驚いた。


Afro MiTuが結成されたのは2年前。きっかけは「ChocQuibTown」という、コロンビアで活動しているHipHopグループがヌエボ・ミレニオ地区を訪れ、ラップのワークショップをおこなったことだった。ChocQuibTownのメンバーもまた北部の太平洋側地域出身でアフリカ系コロンビア人であり、『De donde vengo yo(おれたちはどこから来た?)』というアイデンティティを問う曲を歌っている。そのワークショップに参加したメンバーたちは「銃ではなく言葉で戦うこと」に目覚め、活動を始めたという。歌詞はメンバー同士で話し合いながら考え、太平洋地域の音楽に特長的なマリンバなどの打楽器演奏を取り入れた曲をつくった。私たちが訪ねた当時、Afro MiTuは初のCDを出し、SNSでの告知も始めた直後だった。このタイミングでの日本人の訪問に、年齢よりもずっと落ち着いた雰囲気の若者たちも喜びを隠せないようすだった。


この地域で長く活動しAfro MiTuのことも支えてきたウリさんは、彼らの行動はこの地域の「希望」だと話す。彼らは音楽活動をするだけでなく、地域で清掃活動をしたり平和のデモ行進などを率いたりもする。大学でソーシャルワークを勉強している男性はゲリラグループと政府の和平合意について自分の考えを熱っぽく語った。


暴力、貧困、差別によってさまざまな可能性をふさがれた土地で生きていかねればならないとしたら、私はどうしているだろうか。ビエント・リブレ地区の女性たちはそんな理不尽さへの怒り、あきらめ、悲しみに耐えながら、日々を過ごしていた。Afro MiTuはそんなたくさんのトゥマコの住人たちの気持ちを代弁しているようだ。


この旅の間も、帰国してからもコロンビアでは市民活動家が殺されたというニュースが入ってきた。コロンビアの各地で平和と権利を求め非暴力で活動している人々がいるが、さまざまな理由からそれを邪魔に思っている者たちもいるという。遠い日本から無責任に期待をかけることはできないと思いつつも、ラップを通した若者たちの訴えが広がり、後に続く子どもたちへ道が拓かれることを願う。


※Afro Mituの音楽は下記のアドレスから視聴することができます。

https://youtu.be/OQYblVGmtJY

コロンビアのアフリカ系コミュニティを訪ねて②


トゥマコに滞在して2日目は、カトリック教会の慈善組織「パストラル・ソシアル」が支援している沿岸の地域「ビエントリブレ」を訪ねた。この地域では農村からの移住者や内戦の激しい地域からの避難民が流入し、人口の過密化が進んだ。土地が不足しているため、多くの住民が干潟に家を建てて一日の半分以上を水上で生活している。雨あがりでところどころぬかるんだ道をソーシャルワーカーのドラさんの案内で進んでいくと、10代後半と思われる青年たちが3、4人道ばたで座わりこんでいた。外とはちがうとがった視線を感じて足早に通り過ぎた。


この地区に暮らすマデリンさんは、魚の仲卸業や化粧品の販売をして生計をたてているシングルマザーだ。パストラル・ソシアルがおこなう母親向けのワークショップに参加している。マデリンさんには4人の子どもがいたが、そのうち二人の息子はゲリラが海岸沿いに埋めていた地雷の被害にあった。一人が死亡、もう一人も耳に障害を負い、パストラル・ソシアルの支援を受けながら病院通いをしている。マデリンさんの家にお邪魔していると、20歳前後と思われる青年たちがやってきた。青年たちは私と柴田を不思議そうに見ていたが、ほかのコロンビア人がするのと同じようにあいさつの握手を求めて手を差し出してきたため、私はほっとして握手を返した。青年たちはコピー用紙にたくさんの数字が印刷された紙を広げて何かを説明している。青年たちは地域の役員か何かだろうか? スペイン語がわからない私が隣にいる柴田に「これは何?」と聞くと、柴田は険しい顔で首を振った。マデリンさんの娘はくしゃくしゃになったお金をそっけないそぶりで青年たちに渡した。青年たちはお金を受け取るとすぐに立ち去った。しかし、少しすると戻ってきてさらにお金を要求した。娘は渋い顔でまたお金をさし出した。


後で聞いたところによると、その青年たちは元はゲリラの構成員で現在はビエントリブレに拠点を置く武装組織のメンバーだという。彼らが持っていたのはビンゴカードで、それを各家庭に売りつけて回っているのだった。同じことがこれまでもたびたびあったようだ。ビンゴカードを売った収益は地区の改善に役立てると話しているが、住民たちがその恩恵を受けたことは一度もなく、先ほどの青年たちがドラッグを買うために使っているようだとマデリンさんは話す。しかし、住民たちはそれに抵抗をすることができない。ビエントリブレでは白昼から人が殺される事件が相次いでいるのだ。武装組織に抵抗した者やコミュニティの外に情報をもらしそうな者が目をつけられ、消されていると見られている。


マデリンさんの家の近所に暮らす女性は昨年10月に夫を殺害された。私たちが会ったとき彼女が着ていたTシャツには夫の顔写真と平和を祈るメッセージがプリントされていた。


「それでも、私たちにとってはここが安全なの」とマデリンさんは語る。この地域を出れば、対立する組織に命を狙われる可能性もあるためだ。


路地では5、6歳くらいから10代の少年たちの集団が裸足で鬼ごっこをしていた。人や家の間をどの子も猛スピードですり抜け、走っていく。この鬼ごっこは背中を触られると負けというルールのようだが、どの子も意地でも背中を触らせまいと抵抗するためか、最後は地面に体を投げ出して激しいもみあいになる。それは単なる遊びではなく、この地域で大人になっていく男子の真剣な通過儀礼のようにも見えた。暴力や麻薬がはびこるこの地区にも警察が捜査に来ることがある。そんなとき武装組織をアシストするのは、今鬼ごっこをしているような幼い子どもたちだとういう。警察の姿を見つけると子どもたちはすぐに武装組織へ知らせに走る。そうして少年たちは兄貴分の信頼を得て、その仲間入りしていくのだろう。
(続く)

コロンビアのアフリカ系コミュニティを訪ねて

破壊された住宅の跡。政府軍基地へ向け発射された迫撃砲が住宅地に落ちた。(2014年 柴田大輔 撮影)

雲霧林に覆われたアンデス山脈を車で下ること2時間。しだいに空が青くなり、空気が熱を帯びてきた。向かった先は、コロンビア南西部沿岸の都市トゥマコ。赤道直下にあり、一年を通して平均気温が30℃前後という熱帯に属する地域だ。


そこではコロンビアの人口の4%(外務省データによる)にあたるアフリカ系住民が暮らしている。16世紀、スペインの植民地となったコロンビアには、ほかの南米の国と同じようにアフリカ人が奴隷として連れてこられた。彼らは鉱山やサトウキビ畑などでの労働に従事させられていたが、1851年に奴隷制が廃止になると、コロンビア国内を移動し定住先を見つけた。とくにトゥマコがある太平洋沿岸地方に移り住んだ人が多く、現在190万人のアフリカ系住民が暮らしている。1990年代前半には、一定の要件を満たしたアフリカ系コミュニティに対して、政府から共有地が与えられた。


トゥマコに着くとすれ違う人はみなアフリカ系で、アジア人の私たちは明らかに目につく存在だった。街のなかはジュースやパンを売る露天商や食堂、衣料品の小売店がずらりと並ぶ。どこでも音楽が大音量で流れ、人の声も大きい。住民たちの祖先が生まれたアフリカの風景もこんな感じだろうか。


ついバックパッカー気分に浸ったが、コロンビアを長く取材してきた案内人の柴田大輔によると「ここはコロンビアでももっとも貧しく難しい地域のひとつ」だという。一昨年サントス大統領がノーベル平和賞を受賞したことで日本でも話題になったが、コロンビアでは1960年代から農村の改革を訴える武装ゲリラが各地で生まれ、政府軍あるいはパラミリターレスとよばれる右派系の民兵組織との争いが続いた。さらにそこへ麻薬組織がからむこともあり事態は複雑化した。トゥマコはその最前線となった。


内戦に翻弄されてきたトゥマコには大きな産業がない。働く先といえば農場や魚市場、タクシーもしくはバイクタクシーのドライバー、または前述のような商店にしぼられる。こうした仕事で得られるのは、コロンビの最低賃金以下の給料だ。街の外れにはビーチリゾートがあり、ホテルや高級なレストランもあるのだが、経営者は外部の人間で、観光客が気前よく落とすお金はそこに集約されてしまう。

 

こうしたなか、カトリック教会の慈善組織「パストラル・ソシアル」はトゥマコの住人たちに寄り添った活動を続けている。パストラル・ソシアルのディレクターであり、ソーシャルワーカーとして女性たちの支援をしてきたドラ・バルガスさんを訪ねた。ドラさんのオフィスがある教会の前には、2001年に亡くなったシスターの胸象があった。パストラル・ソシアルでアフリカ系住民の権利回復のために尽力していた方だったが、何者かに暗殺された。アフリカ系住民の土地を守るため、国内外で精力的に活動していた時期だったという。


ドラさんはとてもチャーミングでエネルギーに満ちた方だった。私は自己紹介がてらストリートチルドレンを考える会のこと、フィリピンのNGOでボランティアしていたことを話し、「トゥマコにはストリートチルドレンはいますか?」とたずねた。すると、子どもではないが、大人の薬物中毒者で家族から見放され、一人で路上暮らしをしている者は多いという。彼らは昼間は人目につかないところで眠っているが、夜になると起きてごみをあさる生活をしている。年齢層は以前は30代、40代が多かったが、最近では20代もめずらしくない。その場合、青年たちが初めに薬物に手を出したのは10 代のころだという。


子どもが薬物中毒に陥る理由として、ドラさんは次のように語った。


「貧しくて学校に行けない子もいますし、子どもが安心して集まれる場がここにはありません。音楽やスポーツの才能があっても、それに打ちこめる場がなく、導ける大人もいないんです。そんな子どもたちに麻薬の売人は食べ物やお金をあげるから、仕事を手伝わないかと声をかけます。ごはんを食べられない子どもたちはお金や食べ物をほしくて手伝ううちに、自分も麻薬に手を出してしまうんです。同じようにして武装グループに入っていった子もいます。
 それから親が子どもの行動に関心を払えていない家庭の事情もあります。夜遅くに外出しても何も言わなかったり。でもそれは大人たちも十分な教育を受けていなかったり、仕事がなかったりして将来に対するビジョンを持てていないからなんです」。

 

トゥマコでは高校への進学率は60%、大学への進学率は3%にとどまっている。これはコロンビアの他の都市部にくらべ、明らかに低い。

(続く)

彼女たちのその後


フィリピンから全国社会福祉協議会の研修のため来日していたバハイ・トゥルヤンのソーシャルワーカー、エナ・モンテスさんが約1年の研修を終えて帰っていった。


エナさんには私が共同代表をつとめる「ストリートチルドレンを考える会」のチャリティパーティでも現地の報告をしてもらい、バハイ・トゥルヤンの活動について知ってもらうことができた。日本語がほとんどわからなかったときも、持ち前の明るさ、やさしさですぐにみんなと打ち解けたエナさん。
実習先の施設でもエナさんの人柄に助けられた人はたくさんいたのではないかと思う。


昨年1年はフィリピンに行くことができなかったが、エナさんと定期的に会うことができ、
私もよく知っている子どもたちの現在の様子を聞くことができた。


カルメンは福祉系の大学の4年生になり、今年卒業予定だ。
カルメンと出会った6年前、彼女は15、16歳だった。けれども長い間学校に行けなかった彼女はそのときエレメンタリースクール(小学校)の5年生だった。物心ついたときには母親は亡くなっていて、父親と新しい家族との生活がうまくいかずにバハイ・トゥルヤンで生活をしていた。父親も6年前に亡くなり、死に目にあうこともかなわず、当時のソーシャルワーカーと抱き合い号泣をしていたのは忘れられない光景だ。


大半の子どもとスタッフが家族や親族のもとへ一時帰宅するクリスマス、私はカルメンが母方のおじの家に行くのに付き添った。クリスマス休暇に入ったソーシャルワーカーからは、「もしカルメンが泊まっていきたいといったら、そうさせてあげて」と言われていたが、日ごろからおとなしいカルメンは言葉少なかった。おばがつくったお菓子を食べて、いつもよりも静かなバハイ・トゥルヤンに私と一緒に帰った。ほんのわずかな間の訪問だったが、将来について「エンジニアかソーシャルワーカーになりたい」と彼女が言ったことは印象に残っている。


私が帰国したあと、ハイスクールの1年目で彼女は高校卒業資格が得られる試験をパスし、福祉系の大学に進んだ。大学1年生のときにバハイ・トゥルヤンのマニラオフィスで会っていたが、もう卒業間近とは早いものだ。


エナさんから話を聞いた数日後、ちょうどカルメンからフェイスブックでメッセージが届いた。現在はソーシャルワークの実習でマニラ首都圏の貧困コミュニティに入り、住民たちの仕事づくりに取り組んでいるという。もともと控えめな生活の彼女だが、その資金集めのためにさまざまな知人に手紙を書いてお願いに回っているという。5月に卒業したあとはいよいよソーシャルワーカーになるための国家試験を受ける予定だ。
彼女の成長ぶりはエナさんも頼もしく見ている。


一方でカルメンと同じ大学に進学し、カルメンのルームメイトでもあったエリザは妊娠し大学を休学したという。


エリザも賢く、熱い意思を持った子だった。
バハイ・トゥルヤンに来たばかりのころ、彼女はこういっていた。
「私には3つ夢があるの。ひとつはフライトアテンダントになること、二つめはお父さんの病気が治ること、三つ目はもう一度家族みんなで暮らすこと」。


また、大学に進学したばかりのころ彼女はフェイスブックにこんな書き込みをしていた。
「これから必死で勉強をがんばる。辛いときもあるかもしれないけれど、ここであきらめてしまったら、この先の人生はきっともっと辛い」


エリザの真面目さはエナさんも実感していたようだ。よくエリザの相談にのり奨学金のスポンサーをさがしていた。しかし、彼氏ができたエリザは、エナさんが日本に来てから妊娠していることがわかった。エリザ本人からエナさんに「ごめんなさい」とメッセージが送られてきたという。


ほかにも、若い母親になった女の子が何人もいる。
新しい命の誕生は喜びたい。
けれどもみんな母親になること以外にさまざまな夢を持っていた。


これについてエナさんは、「彼女たちは生まれ育った環境のために自己肯定感が低い。だから、自分を慕ってくれる彼氏ができるとうれしくて関係が深くなってしまうのだと思う」と話す。
日本での実習期間中にも同じようなことを感じることがあったそうだ。
エナさんのように親身になってくれるスタッフが回りにいても、子ども時代の欠損を埋めるのは難しいという現状を痛感した。


けれども、エナさんはこれからも母親となった彼女たちと関わっていきたいと考えている。
温かいスタッフたちに支えられた若い母親たちが愛情深く子どもを育てていくこと、そしていつか子どもたちが望み通りの人生を歩んでいけることをただ願う。

バハイ・トゥルヤンの紹介記事が掲載されました


バハイ・トゥルヤンの紹介記事を先日「Iおんなの新聞」に寄稿させていただきました。
機会をいただいた光吉記者に感謝!!
誌面データも提供いただきましたので、こちらにアップします。
どうぞご一読ください。

(クリックすると画像が大きくなります)

予想をくつがえすことのない傑作
―『ローサは密告された』


大型スーパーに買い出しに行く。レジではおつりの小銭がない。しかたなく釣り銭をあきらめて帰る。たくさんの荷物を抱えてタクシーを拾うが、運転手は狭い路地に入るのを嫌がり、途中で降ろされてしまう。


そんな「フィリピンあるある」の当たり前の光景からこの映画は始まり、ごく普通の日常が進んでいく。登場人物の大きくて高い声の調子は、私の知るマニラの人たちにもよく似ていた。


主人公ローサの家はサリサリストアとよばれる雑貨店を営んでいる。そこにバイクに乗ってやってきた若い男性。「代金は5000ペソだ」と男性がいうところを、ローサは「今日は4000ペソだけ。残りは客がツケを払った後で渡すから」と返す。ミネラルウォーターでも売り買いしているかに見えたその光景は、麻薬の売買だった。


ローサの店ではその男性から買った麻薬を小分けにして、住民たちに数百ペソで売っている。住民たちは「アイスを売ってくれ」といって、ローサの店に買いに来る。まだあどけない表情の少年までも。ローサの夫は白い粉をたばこのケースに入れ、「あの家に子どもが生まれたんだって?」と世間話をしながら渡すのだ。

 
そんなローサの家に突然警官が踏み込んでくる。警官たちは麻薬だけでなく、店の売り上げと娘の携帯電話を押収して警察に連れていく。(現在のドゥテルテ政権下であれば、その場で撃ち殺される可能性もあるようだが、この映画はそれ以前につくられたものだ)。麻薬所持を否認するローサと夫。しかし、警官はあっさりと20万ぺソ(約40万円)を払えば明日釈放してやる、そうでなければ麻薬の売人を売れと取引を提案してきた…。


ローサのように日常的に麻薬を売り買いする人々をどう思うだろうか。まず「違法なことをしているのだから悪い」という思いを持つだろう。しかし、生まれたときから麻薬の売り買いが日常にあり、警察はスラムの住民たちを利用して自分たちの私服を肥やすことだけを考え、麻薬を根絶しようという意志はない。この日常では法律も「No Drug(麻薬根絶)」のスローガンも中流階級以上が望む綺麗事であり、「自分たちはこのやり方で生きていく」という思いを固めていくのではないかと想像する。


映画が進んでいくうちに、ローサの家族に対して同情を禁じ得なくなる。しかし、この映画を撮った監督は意外にも、麻薬の売人や中毒者を殺しても構わないというドゥテルテを評価している。現に監督の話では、ドゥテルテ政権になってからこの映画に描かれているような麻薬の密売は減っているという。確かにドゥテルテは今でもフィリピン国民に広く支持されている。支持される理由の一つは麻薬をふくめて「ダメなことはダメ」という絶対的な規範を持っているということだ。


思い返せばドゥテルテ政権が誕生した直後、多くの麻薬中毒者が出頭した。テレビのインタビューを受けたなかには「麻薬をやめたかったけれどやめられなかった。ドゥテルテ政権が誕生したおかげで、やめられる」と語る人もいた。断ち切れない麻薬の誘惑と警察とのいたちごっこ、人々はこうした日々の連続に疲れ、強引なやり方であってもその連鎖を断ち切ってくれるリーダーを求めたのかもしれない。しかし、その代償として亡くなった人は数千人にのぼる。


スラムと警察内部の映像が大半をしめる映画のなかで、一度だけローサの息子が洒落たカフェに出かけることがある。そこでつきつけられる格差と差別。こうして負った傷を忘れるために麻薬に手を伸ばす人もあったかもしれない。


予想をくつがえすことなく、ただリアルに淡々と流れる映像からさまざまなことを考えた。

チャリティパーティのお知らせ―More than a shelter



私が2011年から1年半滞在していたフィリピンのNGO「バハイ・トゥルヤン」のソーシャルワーカー、エナさんが研修のため、日本に滞在しています。この機会にバハイ・トゥルヤンでの彼女の活動と、関わってきた子どもたちのケースについてお話をしていただくことになりました。


現地のNGOの取り組みについて、フィリピン人スタッフからお話を聞ける、貴重な機会です。
ご都合のつく方は、ぜひご参加ください。


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日時 7月1日(土) 午後6時〜8時45分
場所 池袋/がんばれ!子供村 2階
参加費  1000円(高校生以下は500円) 
(ラテン手料理&ドリンク&現地NGOへの寄付を含む。)
問合せ・申し込み  E-mail info@children-fn.comへ件名を「バハイ・トゥルヤンの挑戦」として。
※食事の準備のため、なるべくメールで事前に参加をお知らせください。

「子ども中心」の社会的養護とは?-②
映画「隣る人」から思う


隣る人」は児童養護施設「光の子どもの家」を8年間にわたり撮影したドキュメンタリー映画です。2012年の公開以降、各地で自主上映が続けられています。タイトルの「隣る人」は、この施設の理事長がつくった造語で、「いつも隣りにいつづける人」といった意味がこめられています。


「光の子どもの家」は、1985年に可能な限り通常の建物でふつうの暮らしを子どもたちに提供する、「子どものための子どもの」施設をめざしてつくられました。「〇〇家」と名前のついた民家5軒が設けられ、そこで子どもたちが保育士と生活しています。こうした形態は日本の児童養護施設としては、めずらしいといいます。


また、これも日本の施設のなかではあまり例がないそうですが、職員は交替制ではなく責任担当制というかたちをとっており、住み込みで担当の子どもと寝食をともにしています。「私のママだよ」と子どもたちが保育士をとりあったり、実母の面会に戸惑ったり、子どもたちの多感な表情をカメラは静かに映しています。


児童養護施設を記録した映像をテレビで見たことは何度かありますが、この映画のように子どもたちの顔を映したものは見た記憶がありません。プライバシー保護の観点から映さない、または撮影してもモザイクを入れたり音声を変えたりすることが、報道の場合は当たり前になっているのではないかと思います。私自身も取材をする立場として、その考えはよく理解できるものです。


それがなぜこの映画では子どもの素顔を出せたのか。意外にもそのきっかけとなったのは、そこで暮らす子どもたちの言葉だったといいます。以前、光の子どもの家ではニュース番組の取材を受けたとき、やはりプライバシーを守るために徹底的な規制をかけました。けれども自分の顔にぼかしの入った映像を見た子どもたちは、理事長に強く抗議をしたといいます。


「私たちは何かわるいことをしたの? 甲子園に出る高校球児たちはだれもボカシが入ったりしないのに」。
それが彼女たちの思いでした。


実際に子どもたちのなかには、カメラに映ること嫌がる子もいるでしょう。さまざまな事情もありますし、一定の配慮は必要だと思います。
けれども「社会から隠されることなく一人の人間として堂々と生きていきたい」という思いも、また子どもたちのなかにあることを、このエピソードは教えてくれるようです。


光の子どもの家は、行事を通して地域の人々と交流し、育児相談にのったり、家出少年の駆け込み寺にもなったりと、地域社会のなかでなくてはならない存在になっています。
しかし、立ち上げる前は、住民から「児童養護施設ができると、地域の学校の教育環境が破壊される」といわれ、反対運動が起こりました。「札付きのワルが来る」という噂も流れ、地域の理解を得るために大変な苦労をされたそうです。


社会のなかでなくてはならない場所なのに、近くにあるのはなんだか面倒だと思われ、誤解され、排除されてしまう。これはなぜでしょうか。


児童養護施設や里親など、家庭で暮らせない子どもを支える制度を「社会的養護」とよびます。社会で子どもを支えていこうという意味がこめられています。


「けれども実際にはまだまだ社会的に知られていないし、児童養護施設というと『暗い』、『かわいそう』というイメージが強いんです」と話すのは、中学生時代に児童養護施設での生活を経験した筒井保治さんです。


現在、筒井さんはお仕事のかたわらIFCAという団体に関わり、社会的養護を明るいものにするために活動されています。アメリカの青年たちとも交流をし、日米の社会的養護が良いものになるように、尽力しています。


5月13日に、筒井さんをゲストにお招きして、「『子ども中心』の社会的養護とは?」をテーマにお話しを聞くイベントを予定しています。ぜひ多くの方にお越しいただければと思います。

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Talking-Gig「子ども中心」の社会的養護とは?


ゲスト 筒井保治さん
さまざまな事情から家庭で生活することのできない子どもたちを、支えるしくみが児童養護施設や里親といった社会的養護です。けれども、日本の社会的養護にはさまざまな課題があるといわれています。社会全体で子どもを支えるため、大人一人ひとりにどんなことができるでしょうか? 自分自身も児童養護施設での生活を経験し、当事者の子どもの権利保障、生活向上のために活動を続ける筒井保治さんにお話を聞きます。


2017年5月13日(土) 18:00 – 21:00
バリアフリー社会人サークルColors
(東京都大田区東京都大田区東矢口3-3-1 Transit yard 1階)
参加費…フリードリンクお菓子アルコールあり1500円


参加を希望される方は、よろしければ下記のフェイスブックページから参加ボタンを押してください。
https://www.facebook.com/events/1919365674959350/

「子ども中心」の社会的養護とは?-①
「ルポ 児童相談所」を読んで


2015年に日本国内で把握された虐待件数は10万件以上。年間5万6000件あまりだった2010年から5年間で2倍近くも増えたことになります。


厚労省は「虐待そのものが増えていることに加え、社会的意識の高まりで、警察からを含めた通告や相談が増えた結果」と分析しています。後者のとおり、これまで見過ごされていた虐待がキャッチされるようになったのであれば、一歩前進といえるかもしれません。


けれども、この10万人の子たちが、その後どのように過ごしているかは、あまり顧みられることはないのではないでしょうか。


児童相談所は通報を受けたあと、子どもや保護者に会い、重篤なケースは児童相談所内の一時保護所で保護されます。そこで、一定の期間をへて、家庭の状況に改善がみられる場合は家庭に帰りますが、家庭で適切な養育を受けるのが難しいと判断された場合は、児童養護施設や里親のもとへ移ることになります。


虐待を受けるなど、危険な状態にあった子が児童相談所に保護されたと聞くと、周囲はほっとするかもしれません。私にも心あたりがあります。けれども、当の子どもたちはどう思っているのでしょうか。


「ルポ 児童相談所―一時保護所から考える子ども支援」(ちくま書房)
は、社会企業家の慎泰俊さんが10か所の一時保護所を訪問、2か所の一時保護所に住み込み、子ども、親、職員100人以上にインタビューをとったルポです。


それによると一時保護所に入って「安心できた」という子どももいる一方で、「あそこは地獄」と語った子もいるといいます。


一時保護所にいる間は、学校へ通うことも自由な外出もできず、外とのかかわりが一切持てなくなります。これは、虐待の加害者だった親が子どもを取り戻しにくるのを防ぐためです。けれども、子どもたちは親しい友人にも何もいうことができないまま一時保護所へ連れてこられ、この先、自分はどうなるのか、いつまで一時保護所にいなければいけないのかもわからない、精神的苦痛を抱えているのです。さらに、子どもの数が多い保護所では、職員が細やかな対応や意思の疎通が難しく、それがますます子どもの不信感を募らせることになっています。


こうしたことを書くと、「児童相談所は何をしているのか?」という批判が出ると思います。けれども著者は、「いちばんの問題は、地域コミュニティの力が弱り、子どもを支えることができなくなった結果、児童相談所が子どもに関する問題をすべて抱えなければならない状態になっていること」と指摘しています。


本書に出てくる児童相談所の所長の言葉は重く受け止めなければと思います。
「虐待に関して、多くの人が正義感に燃えて勇ましいことを言うが、自分の現在の仕事や地域に問題が発生すると、後ずさりして『児相にお任せ』ということが多い。結果として、現場の仕事は日に日に増えていき、職員が疲弊しており、それが子どもの虐待死を防げなかったり、そこまでいかないとしても、子ども支援が十分にできないことにつながっている」


著者は解決策として一時保護の必要な子どもを、一時保護所のかわりに地域の里親家庭や児童養護施設などで預かる一時保護委託の拡大をあげています。
また、学校や民間団体、地域のボランティアなどが協力して、子どもや地域から孤立しがちな保護者を見守るネットワークづくりも提案しています。こうした取り組みは大阪や平塚などで、すでに実践されているそうです。


それぞれが自分たちの生活を送りながら、地域の子どもを見守りつづけるのは、誰にでも容易にできることではありません。けれども子どもの問題を行政任せにするのではなく、自分たちも担い手になり得るのだという意識を持つことがまず大切ではないかと、私は思いました。


このテーマに関連して、来月下記のようなイベントを予定しています。
お時間のある方はぜひ!


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Talking-Gig「子ども中心」の社会的養護とは?


ゲスト 筒井保治さん
さまざまな事情から家庭で生活することのできない子どもたちを、支えるしくみが児童養護施設や里親といった社会的養護です。けれども、日本の社会的養護にはさまざまな課題があるといわれています。社会全体で子どもを支えるため、大人一人ひとりにどんなことができるでしょうか? 自分自身も児童養護施設での生活を経験し、当事者の子どもの権利保障、生活向上のために活動を続ける筒井保治さんにお話を聞きます。


2017年5月13日(土) 18:00 – 21:00
バリアフリー社会人サークルColors
(東京都大田区東京都大田区東矢口3-3-1 Transit yard 1階)
参加費…フリードリンクお菓子アルコールあり1500円


参加を希望される方は、よろしければ下記のフェイスブックページから参加ボタンを押してください。
https://www.facebook.com/events/1919365674959350/

フィリピンのサッカーリーグと
日系クラブ「JPV Marikina FC」



3月24日発売の「アジアフットボール批評 issue04」に寄稿させていただきました。
(カンゼン社の皆さま、ありがとうございました!)


昨年9月に取材させていただいた、フィリピンのプロサッカーリーグと、日本人がオーナーをつとめるクラブ「JP Voltes」についての記事です。


フィリピンはサッカーよりもバスケットボールが盛んな国ですが、2009年からセミプロリーグが始まり、2010年には代表チーム「アスカルズ」がアジアの大会で活躍したことをきっかけに、少しずつサッカー熱が高まっています。

JP Voltes対Loyola Meralco Sparks。緑のユニフォームがJP Voltes。Loyolaのスポンサーはフィリピンの大手電力会社。ヨーロッパ育ちのフィリピン人選手を多数獲得している。


という私も正直、一年前まではフィリピンにサッカーリーグがあったことを知りませんでした。取材のきっかけは、日本でおこなわれたフィリピン関連イベントで、選手のお父さんにお会いしたことでした。JP Voltesの高野大志選手のお父さんの高野信さんは、かつてJICAの野球の指導員としてフィリピンに滞在された経験がある、フィリピン通のスポーツマンです。信さんにお会いし、フィリピンのスポーツ事情をはじめ、さまざまなことを教えていただきました。


今回の記事には書ききれませんでしたが、大志選手とチームメイトの高橋アレン選手からはフィリピン人選手との寮生活の話など、興味深い話もたくさんうかがいました。

高野大志選手と。フィリピン人の選手からは「お母さん?」と聞かれ、自分の年を感じる(!)

高野大志選手と高橋アレン選手。フィリピン人のお母さんを持つ二人。フィリピン代表入りもめざす。


またオーナーの永見協さんには取材に際し、多大なお気遣いをいただきました。実際のところ、フィリピンのサッカーリーグは、興業的にはまだまだ成り立っているとはいえず、オーナーの持ち出しでクラブ運営を続けている状況があります。そのなかでも、多くのフィリピンの若者にプロになる道を開き、貧困層の子どもたちの支援、育成にも熱心な永見さんのお人柄に感銘を受けました。


じつは、フィリピンのサッカー界は過渡期を迎えています。
これまで、フットボールアライアンスという資産家による有志の団体によって支えられていたUFL(ユナイテッドフットボールリーグ)は、この春からフィリピンサッカー連盟に引き継がれ、新しくPFL(フィリピン・フットボール・リーグ)という名称でスタートします。それにあわせて、各チームもホームタウンを持ち、地域を密着したチーム運営をめざしていくそうです。


「JP Voltes」は、マニラ首都圏のマリキナ市をホームタウンとし、それに伴い「JPV Marikina FC」にチーム名を変更して、新シーズンに挑むそうです。


フィリピンに先んじて、ほかのアジアの国では、サッカーは国民的なスポーツになっています。レベルも向上していて、アジアに渡ってプレーする日本人選手も増えているようです。


アジアのサッカー情報が満載の「アジアフットボール批評」は、サッカー好きにも、アジア好きにもうれしい一冊だと思います。ぜひ興味のある方はお手にとっていただければと思います。

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プロフィール

野口和恵

フリー編集者・ライター。児童書編集にたずさわるかたわら、国内外の子どもを取り巻く問題について取材。

著書に「日本とフィリピンを生きる子どもたちージャパニーズ・フィリピノ・チルドレン」(あけび書房)がある。


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