マグダレーナの死と残された夢と


9月29日、いつも通り日本語教室のボランティアに行ったマリガヤハウスで、ある訃報を聞いた。亡くなったのは、クライアントの一人で3人の子どものシングルマザー、まだ46歳だった。前日の夜、頭痛を訴えて横になっていたのが、翌朝にはもう冷たくなっていたのだという。その一週間前にはマリガヤハウスのワークショップに参加し、元気に体を動かしていた。


彼女は赤ん坊のとき、教会の脇に捨てられていた孤児だったという。小学校3年生まで施設で暮らしていたものの、窮屈な生活を嫌ってか、ほかの子どもたちと脱走。それからハウスメイドをしたり美容院の案内係をしたりして働き、生きてきた。


美容院で働いていた21歳のとき、お客だった日本人に誘われ、エンターテイナーとして日本に働きにきた。しかし、もともと孤児だった彼女には出生証明自体がなかったため、必然的に不法入国となった。日本にいるうちに、彼女は3人の子どもを産んだ。上の二人は、それぞれ別のベトナム人の男性との間に生まれた子。下の子は、日本人男性との間に生まれた女の子、ミキだ。ミキが三歳になるまで、母子はミキの父親と一緒に暮らしていたが、その父親との仲も悪化。2002年にフィリピンに渡航するという別の日本人男性について、子ども三人とフィリピンに帰ってきた。しかし帰国後、その男性はすぐに別のフィリピン人女性と暮らし出した。


頼れる親戚もなく教育もない彼女が、ひとりで生計をたてることは容易ではなかった。いつしか母と幼い子どもたちは、公営墓地に住み、墓石の上で寝起きした。そんなときに手を差し出したフィリピン人男性がいたが、彼はドラッグユーザーだった。彼女もドラッグに手を染めるようになった。子どもたちの状況を見るに見かねた人の通報によって、ミキと兄たちは保護され、児童養護施設に入った。


その後、ミキの父親が日本人であることを知っていた母親の友人が、日本の父親を探し出してミキの養育支援を依頼できないものかと、マリガヤハウスに相談にきたことから、マリガヤハウスと母子との関わりが始まった。最初のころ、突然マリガヤハウスを訪れた母は、ドラッグ中毒のため、まともに会話ができるような状況ではなかったという。


けれども彼女はもう一度子どもたちと暮らすため、これまでの自分の人生を反省し、ドラッグをやめて洗濯婦として働きはじめた。マリガヤハウスは子どもと暮らすのは、もう少し経済力がついてからとアドバイスをしていたが、子どもと離れ離れの暮らしに耐えかねたのだろう。彼女は施設から強引に子どもを引き取った。マリガヤハウスには「これからは家族で暮らしていく」という報告をしたきり、音信が途絶えたという。


数年後、彼女からふたたびマリガヤハウスに連絡があり、スタッフが訪問した家庭の生活状況は大変なものだった。彼女の洗濯婦としての稼ぎは1日200ペソ(約400円)、それだけで家族4人が食べていかなければならない。家はブタ小屋を改造した粗末な小屋を借り、お金がないときは食事を抜いていた。そんな生活のなかでも、子どもたちはきちんと学校に通っていた。母自身が無学で苦労してきたこと、勉強することの大切さを子どもたちに聞かせていたのかもしらない。そんな頑張りが認められ、ミキは奨学金の支援を受けるようになった。


私が彼女とミキに会ったのは、亡くなるつい2週間前のことだった。その日は、子どもの将来について親子で考えるというワークショップがあった。彼女はあっけらかんとした調子で「ごめんね、私、英語わからないの。小学3年生までしか学校に行っていないからさ。タガログ語と日本語しかわならない」と言った。


子どもの将来を考えるワークショップであったものの、ミキはおとなしかった。母はしゃべらないミキにかわって「この子は警察官になりたいのよ、日本のおじさんが警察官だったから。今でも写真を持っているよ」と、ときどきテンポのおかしな日本語でくりかえし言った。その横で、ミキは「先生」と「働いて親を助ける」という二つの夢をワークシートに書きこんだ。


彼女は「将来は子どもと日本に帰りたい」ということを何度も口にした。あちこちで、いろんなフィリピン人から同じことを聞いている私は「今は日本だってそんなに思っているほど良くないですよ」とお決まりのようにいった。「でも、仕事あるでしょう。日本だったら私だって、会社に入れたもの。卵からマヨネーズつくる工場ってあるでしょう。そこで働いていたの。フィリピンだと、もう洗濯するか掃除する仕事しかないよ。だって、私小学校3年生までしか出ていないもの」


そういわれると返事に詰まった。後から彼女の生い立ちのことを聞いて、自分が日本人の物差しだけで、彼女を測ろうとしていたように感じた。けれども、そんな私に不愉快な顔を見せるでもなく自分のことを正直に話してくれた彼女に感謝した。


先生、医者、アーティスト…。フィリピンの子どもたちだって、最初はみんな大きな夢を持つ。けれども、彼女はそんな夢をみること自体、小さなときにあきらめたのかもしれない。そして40代半ばになった今の、夢らしいものは、もう一度日本に行き、工場などで職を得て働くことだったのだ。


でも現実には、それすらも達成するのは難しい夢だった。彼女もミキも出生証明がなく、父親と連絡がとれたとしても、認知を得たり日本国籍を取得したりすることができない。証明書を得るにはお金がかかる。日々食べていくのがようやっとの今の生活では、証明書を取るお金をためることも容易ではなかった。


そんな厳しい現実を聞きつつ、親から養育放棄された子たちをふだん見ている私には、母に頭をなでられ、はにかみ笑ったミキの姿が微笑ましく写った。上の二人の息子についても、「お兄ちゃんたちは本当に頭がよくて、私の自慢」と彼女は語った。母を知らずに育った彼女が自分なりに精いっぱい役割を果たそうとし、母としての喜びも感じている。
「あなたにとって子どもはどんな存在ですか?」もっと親しくなって、そんなことを聞いてみたいと思っていた。


でも、それをたずねることはできなかった。
彼女の訃報を聞いた日、フィリピンの名曲、フレッディ・アギラの「マグダレーナ」を繰り返し聞いた。この曲のなかでマグダレーナとは、お金もなく教育もなく、愛にやぶれ、売春婦として働くしかなかった女性の名前だ。フレッディはマグダレーナのことをこんなふうに歌う。


君はあらゆる困難に耐えてきた

君の夢は貧しさから抜け出すこと

マグダレーナ、君はなんて不幸なんだ

いつになったら彼らは君を理解してくれるだろう

君はただ平穏に暮らせることを望んでいる

でも、世界はひどすぎる

いつまで君は待てばいいのだ?

いつまで我慢すればいいんだ?

君の祈りは、いつ届くんだ?


棺も墓地も購入する費用がなかったため、苦しそうな表情をした遺体は一週間以上の間、自宅に寝かされていたという。だが、近所の人たちが寄付を集めてくれたおかげで、何とか埋葬された。


マリガヤハウスは今後の子どもたちの支援方法を模索しているところだ。なんとか子どもたちには大学まで卒業してほしい。たとえ先生や医者になることはできなくても、少しでもたくさんの選択肢を得てほしいと考えている。


貧しさから抜け出して平穏に暮らしたいという、母親のささやかな夢は生前に報われなかったかもしれない。けれでも、きっと母は今も、自分とちがった人生を子どもたちが手にできるよう、天国から祈り続けているにちがいない。

※文中の子どもの名前は仮名

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プロフィール

野口和恵

フリー編集者・ライター。児童書編集にたずさわるかたわら、国内外の子どもを取り巻く問題について取材。

著書に「日本とフィリピンを生きる子どもたちージャパニーズ・フィリピノ・チルドレン」(あけび書房)がある。


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