カルメンのクリスマス


日本に帰ってもうすぐ一年になるものの、フィリピンとの関わりは続き、滞在中の記憶もまだ鮮明だ。とりわけ、2年続けてバハイ・トゥルヤンに泊まり込みで過ごした、クリスマスから年越しの記憶は色濃く残っている。


フィリピンでは、英語でberのつく月、つまり9月(September)からはクリスマス色が濃くなっていく。クリスマスソングが流れ、ツリーの飾りが売り出されるようになる。


日本のクリスマスといえば、子どもはサンタクロースにプレゼントをもらい、大人になれば恋人とデートするものになっているが、本場のキリスト教国フィリピンでは、クリスマスは何より家族といっしょの時間を楽しむものだ。
そのため、ふだんは家庭の貧困や生活環境の劣悪さからバハイ・トゥルヤンの定住ホームで暮らしている子どもたちも、クリスマス前から年越しまでは自分の家族のもとに帰っていた。


家庭に帰る子どもたちには、生米と缶詰、パスタ麺などを詰めた袋が渡された。震災直後に配った救援物資のように、飾り気のないものだったが、子どもたちは大喜びで持ち帰った。


というのも、フィリピン人にとっては、家族や親族と一緒に食事をすることが、いちばんのクリスマスの楽しみだからだ。クリスマス・イブからクリスマスにかけて食べる食事のことをノッチェ・ブエナと呼んで、大切にしている。また大晦日から新年にかけてもメジャ・ノッチェという食事をとる。食事の内容は、家の経済状態によってまちまち。日付が変わってから食べるのが正しい慣わしのようだ。(おかげで私は年始から激しい胃もたれにおそわれていた…)。


クリスマスを家で過ごしてきた子は、年明けのワークショップの時間に、去年いちばん楽しかった思い出として、クリスマスの絵を描いていた。「ごちそうはあまりなかった。でも、家族と一緒にノッチェ・ブエナを食べることができて幸せだった」。


こんなふうに次のクリスマスを心待ちにするフィリピンの人々を愛おしく思う。


その一方で、クリスマスでさえも、家に帰ることができず、バハイ・トゥルヤンで過ごす子たちも少なからずいた。


カルメンもその一人だ。カルメンは、15歳でバハイ・トゥルヤンに来て、17歳で小学校をようやく卒業した。やさしく年下の子を気遣い、スタッフの思いを素直に汲みとって行動する彼女は、みんなから信頼されていた。彼女がつくるアクセサリーは、とりわけきれいで、いつも飛ぶように売れた。


子どもの家庭環境については厳しい守秘義務があり、組織のなかでも、ソーシャルワーカー以外は、くわしい情報は知らされていなかった。けれども、おととし2月、病気療養をしていたカルメンの父が危篤になったと連絡が入り、カルメンは急いでかけつけたものの、死に目に間に合わなかったと、号泣する場面があった。


2012年のクリスマス・イブをバハイ・トゥルヤンで過ごした次の日、おじの家に遊びに行くというカルメンに同行することになった。こうしたときに同行するのは、本来、ソーシャルワーカーの職務なのだが、クリスマスはスタッフの多くが休みをとっているため、私が行くことになった。カルメンのおじの家は、バハイ・トゥルヤンからジプニーで2時間ほどのところにあった。近くには、フィリピンで戦没した日本の兵士を祀った「ジャパニーズ・ガーデン」がある。山あいの静かな場所だ。


ジプニーを降りると、カルメンは恥ずかしそうに私にぴたっとくっついて、歩いた。着いたのは、1DKほどの大きさのドアも窓ガラスもない、トタン屋根の家で、軒下にはたくさんの子どもがいた。だが、子どもたちはカルメンの顔をおぼえていないようだった。おばがカルメンの顔を見て、家の裏に招き入れた。
もし、カルメンの気がのったら、宿泊を許可しても良いとソーシャルワーカーに言われていたが、カルメンは無口だった。カルメンと年の近い従兄弟が、いろいろ話しかけてきたが、うつむいて黙っていた。


暗い家の中には古いテレビがあるだけで、ほかに家具らしいものは何も確認できなかった。おばはカラマイというもち米をココナッツミルクと黒砂糖で煮込んだものを差し出した。クリスマスだというのに、ほかに食事らしいものは残っていなかった。この様子では、カルメンを引き取ることができないのも、やむを得ない。


おじは、カルメンの父方の家族と異母兄弟はカルメンに対して何もしてくれない、小学校も途中までしか行かせてもらえなかった、あまりにも冷たいと私に語った。


おじの言葉に返事をしたり、うなずいたりするだけのやりとりが小一時間続き、カルメンが母についてたずねた。「お母さんは亡くなったときいくつだったの?」おじは、遠くを見ながら、ずいぶん前のことで忘れてしまったけど、まだ若かったよと答えた。おじは、カルメンの母が不幸な形で亡くなったことを話し、「なんで神があんな仕打ちをしたのか・・・。今でも信じられない」と首を振りながら話した。カルメンはそれをじっと聞いていた。


帰りぎわに、カルメンは大学に行きたいことを話した。「ソーシャルワーカーかエンジニアになりたい」というカルメンに、おばは「『エンジニア・カルメン』なんてかっこいいじゃない」と励ました。従姉たちは帰り際に100ペソ札をカルメンに差し出した。


それから半年後、カルメンが飛び級試験に合格して、大学に進むことが決まったと聞いた。ソーシャルワーカーになれるか、エンジニアになれるか、まだわからない。けれども、5年後か、10年後か、いつの日か、カルメンが自分の家族とクリスマスに食卓を囲めることを願っている。

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プロフィール

野口和恵

フリー編集者・ライター。児童書編集にたずさわるかたわら、国内外の子どもを取り巻く問題について取材。

著書に「日本とフィリピンを生きる子どもたちージャパニーズ・フィリピノ・チルドレン」(あけび書房)がある。


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