3.11後の個人的体験


昨年お会いした報道番組のディレクターの方がこう言っていた。
「もう原発の取材をしても、取り上げられないことが多いんです。みんな原発のことを考えるのに疲れているんですね」。


2011年の3月11日から3年で何が変ったのだろう。いや、変わっていないのか。

【撮影:野田雅也(JVJA)】


巷のことはさておき、私個人のことでいえば、この3年間、ずっとモヤモヤしている。


東日本大震災の当日、幸い、家から近くにいた私は、何の痛手も受けることなく自転車で家に帰り、ずっとテレビの報道やネットから流れてくる情報を見ていた。
大津波が大勢の人を飲みこんだ、町がなくなった、ということはなかなか信じられず、実感が持てずにいた。
だが、福島第一原発の爆発の瞬間の映像を見たとき、震えて涙が出た。チェルノブイリや東海村の臨界事故について書かれた本、被爆者の方の証言が思い出され、恐ろしくなった。


津波による死者の数はどんどん更新されていき、かろうじて命が助かった人も、寒さと飢えに苦しんでいる。それでも、だんだんと原発事故の続報が気になるようになった。政府は「ただちに健康に影響はない」というけれど、子どもたちが大人になるころは? 原発の作業現場はどんなことになっているのだろう?


ネットではすぐに「ヨウ素剤はどこで手に入りますか?」「これから東京を脱出します!」「政府のいうことを信用するな」といった投稿があふれた。その一方で、そんなに心配しなくてもだいじょうぶ、ふつうに生活をするのが大事といった主旨の投稿もあった。だが、両者の考えは、相容れるのは難しく、しだいにお互いを批難するようなやりとりに発展していった。「ひとつになろう 日本」というキャッチフレーズを虚しく聞いた。


震災から1か月後、時間ができた私は、福島にボランティアに向かった。被災地のなかでも福島を選んだのは、他県に比べてボランティアの数が少ないと聞いていたからだ。実際に福島がどんな状態であるのかも知りたかった。


南相馬市に入ったのは、原発がメルトダウンしたというツイートが飛び交った翌日で、防護服を着た自衛隊の車が行ったり来たりしていた。30㎞先では異常な事態が続いているのは、確かなようだった。


それでも、ボランティアセンターには、何事もなかったように人々がやって来た。地元のボランティアと、私のように県外から来たボランティア、あわせて20名ほどで家の泥出しに行った。家のご主人は無言でボランティアを迎えた。家の損傷は激しく、もう一度ここに住むことができるのか定かではなかったが、しだいに泥が取りのぞかれていく家を見て、ご主人の顔がやわらかくなっていった。


作業の間に、地元の方と話した。介護施設で働いていた女性は、避難のストレスから亡くなった利用者がいたこと、自分は仕事を失ったこと、それでも県外からもボランティアが来ていることを知って、自分も市内の復興に協力しなければと思ったことを話してくれた。


二十歳前後の若い女の子はこんなことを言っていた。「同級生の半分くらいはもう、外に出ていっちゃって。残っている友達との間では、よく『あいつは逃げた』って話になるんだ。出ていった友達の気持ちもわかるんだけどね。でも、私たちはここにいるしかないから、これくらい言わせてよって」。


すべての作業が終わったあと、感情を表すのがあまり得意でなさそうなご主人が「ありがとうございました。これでがんばれます」と言ってくれた。


このほかにも、福島では本当に多くの出会いがあった。
ほんの数日、手伝いにやってきただけの私を家に泊めてくれ、手料理でもてなしてくれた老夫婦(子どもと孫は避難中)。
避難区域のすぐそばで泥かきをしながら、行方不明の自分の親と子どもをさがしつづけている男性。
未曾有の天災、人災にも折れることなく、じっとこらえている人たちがいることを知った。


そのころツイッター上では「福島は危ない」「早く避難して」というツイートが、毎日のように飛び交っていた。発信している人のなかには私がふだん親しくしている人も大勢いたし、その背景にある考えには共感するところも大きかった。すべて善意からの発言なのだ。けれども、福島の被災地に立つと、その善意からの発言が何にもならないどころが、踏みとどまっている人をさらに傷つけてしまうことを知った。私も知らずに誰かを傷つけていたことがあったかもしれないと気づいた。


「原発はいらない」。この3年間、いろいろな人がそれぞれの形でその思いを表現してきた。私もいらない、と思う。けれども、脱原発の先頭に立つ人の言葉が抽象的であるとき、そして力強いものであれば、あるほど、いま、福島で暮らす人たちにはどう聞こえているのだろうか、と気になることがある。


そんなところへ、友人が800日間にわたって撮影を続けてきた福島の記録が、映画として完成したと知らせが届いた。送られてきたチラシには、満面の笑顔で笑っている飯舘村の人々の写真と「生きるために笑いまっしょ」という、コピーがあった。
このチラシを見たら、なぜかふいに涙が出た。


この映画「遺言―原発さえなければ」は3月8日~14日までポレポレ東中野で公開される。(続く)

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プロフィール

野口和恵

フリー編集者・ライター。児童書編集にたずさわるかたわら、国内外の子どもを取り巻く問題について取材。

著書に「日本とフィリピンを生きる子どもたちージャパニーズ・フィリピノ・チルドレン」(あけび書房)がある。


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