Archive for the ‘ダイアリー’ Category

あるフェイスブック投稿が伝えたマニラの児童福祉


バハイ・トゥルヤン関連記事の翻訳です(自己流意訳ご容赦ください)。ひどい制度の犠牲になっている子どもと、活動の中心にいる友人たちが心配でなりません。

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写真の少年は生きている。しかし、だれも彼の年齢、住所、家族、本当の名前を知らない。最初に彼を見つけた警官がフレデリコと呼んだことから、そのようによばれている。


フレデリコは、マニラ社会福祉省によって運営されている施設、レセプション・アンド・アクションセンター(RAC)のスタッフによって、とらえられ、路上から連れてこられた。


この写真は、路上で撮られたものではない。彼がRACに来て、7か月経過した、10月12日に撮られたものだ。この写真は、フェイスブックに公開されている。


この写真を撮影、投稿したのは、NGOバハイ・トゥルヤン。オンライン上に写真をアップしたほか、画像データを、アキノ大統領、元大統領・現マニラ市長エストラーダ、司法省、社会福祉開発省、人権委員会に送った。


「いまだ彼らからの返事はありません」、とバハイ・トゥルヤンのキャサリン・シェリーは言う。「私たちは、6年前からRACの改善をもとめて政策提言してきました。けれども、何もかわっていません」。


バハイ・トゥルヤンは、フェイスブック上で次のように述べている。
「RACの中の状況は、ひどく悪い状況だ。子どもたちは、何のケアもなくただ監禁されており、犯罪よりも恐ろしい行為にさらされている。彼らはもっとも基本的な権利が保障されていない。適切な食事と衛生的な水、寝具、衣服。さらに子どもたちは、家族と連絡を取ることもできない。そればかりか、自分の子どもがRACの中にいることを家族が知らないという場合もよくある」


(※ RACは夜間、路上で歩いている子どもを無差別に車に乗せ、施設に連れていく。そのため、子どもだけで路上暮らしをしている場合に限らず、家族がいる子どもも、とつぜん、力まかせにRACに連れていかれる場合がある。この際にスタッフから暴力をふるわれたり、金銭をとられたりする子どももいる。くわしくは、バハイ・トゥルヤンが2009年にまとめたリポートにも明記されている。http://child-to-child.com/date/2012/10


多くの場合、子どもたちは、なぜ自分がRACにいるのかを知ることさえかなわない。表向きの理由として、スタッフは次のようなことを理由にあげる。
夜間外出禁止令(※ 治安維持の目的から自治体単位で決められている)を破って歩いていたから。非行行為への罰則。身体的に危険な状態にあると判断したから、などだ。
しかし、軽犯罪を犯した子どもと、適切なケアが必要だからという理由で連れてこられた子が同じ場所に入れられている現実がある。


バハイ・トゥルヤンは、マニラ市に、RACの早急な生活改善、もしくはフィリピン社会福祉開発省の基準を満たすまでの間、施設を閉鎖するように要求している。ネット署名サイトchange.orgを利用して、請願書の署名活動をはじめ、10月28日までに1000人の署名が集まっている。


「もし、RACのような施設について、苦情が出ているのであれば、食事の改善、適切な運営につとめ、暴力的な職員は解雇、もしくは訓練を受けるようにしなければならない」。社会福祉省、ソリマン長官は10月29日水曜日の路上生活者に関する会議でコメントしたうえで、「マニラ首都開発庁も、センターの改善に協力することができる。もし、RACがいっぱいであれば、ここ(※マニラ首都開発庁の一時宿泊施設のことか?)にいることができる」とつけ加えた。


RAC側は、この施設はドメスティックバイオレンスの被害者や不運にして路上生活をしている人のための一時保護施設としてつくられたものだと述べている。RACが最初に介入したのち、子どもたちは、よりよい生活ができる別の施設へ移している。受け入れ先としては、政府の住宅や、社会福祉開発省、NGOの施設があると説明している。


RACは、30年間運営されている。実行責任者のグロリア・アントニオによると、RACは三つのセクションに分かれている。18歳未満の青少年、大人の路上生活者、ストリートチルドレンと特別なケアを必要とする子ども。RACの中には、非行少年を受け入れる、マニラ・ユース・レセプションセンターがある。


「私たちの許容人数は50人です。しかし、ときには利用者が250人に達するときもあります。子どもたちを受け入れてくれる施設がほとんどいっぱいで見つからないために、超過滞在をしている子がいます」とアントニオはいう。ふつうは3日から5日だけの滞在だが、数か月滞在する子どももいる。


「危険な状況にいる子どもたちにノーといいません。私たちは政府の施設ですから」と彼女はつけくわえる。「現在、特別な支援が必要な子が6人います。彼らに必要な場所を見つけてやることができません」。金曜日、RACは一人の子を精神科の療養施設に連れていく。


RACには20人の寮母、6人のソーシャルワーカー、3人の料理人、10人の警備員がいる。全部で60人のスタッフがいて、看護師、医師、歯医者、栄養士と、子どもたちを路上からセンターにつれてくるレスキューチームがいる。


「現実的には私たちには、39人の寮母が必要です。本当にスタッフが不足しています。そのなかでできることをやっています」とアントニオは述べたうえで、多くの学生とNGOがRACにボランティアとして協力したり寄付をしたりしてくれるとつけ加えた。


バハイ・トゥルヤンは2月にエストラーダ市長に送った書簡の中で、RAC内で起きている次のことを改善するよう、要求している。


・RACスタッフによる非人道的な行為、拷問、いじめ
・子どもどうしのいじめ、暴力の容認
・家族との連絡ができないこと
・非行少年とほかの子どもを同じ部屋のなかで生活させること。
・定員超過状態、適切なサービス、支援の欠如


マニラ社会福祉省は3月、改善を約束すると返事をした。しかし、状況は何も変わっていない。


10月28日、バハイ・トゥルヤンは、RACに収容された経験のある子どもからのヒアリングを行った。これは、アジア人権委員会、チャイルドホープ、ヴァーラニー財団、カンルンガン、アサンプション大学の協力によって行われた。


その話からは、飢餓、身体的虐待、性的虐待など、恥辱と苦痛に満ちた体験があきらかになった。10代の子どもたちは暴力をふるうスタッフがいることを訴えた。実際に、RACでは、2008年と2010年に2件のレイプが起きている。


食事は、米とスープのみ。ときどき、調理されていない米や、傷んだものが出されたという。床で眠り、手で食事をし、バケツで用を足したこと、そして、いつも汚れた衣服を着ていることを訴えた。「水浴びをするとき、私たちはみんな同じせっけんと、一本の歯ブラシをつかっていました。私たちは一人20秒で水浴びを終えるようにいわれ、スタッフが数を数えていました」。


こうした訴えについて、アントニオとマニラ社会福祉省のジーン・ジャクイーンは否定している。子どもたちはマットを与えられたが、好んで床で寝ていた。日用品を与えても、使わなかった。衣服を与えても、古いものを着ていた、とアントニオは話す。


アントニオは子どもではなく、スタッフの側の過酷さを強調する。
「食料品も、寮母も、設備も制約があるなかで、私たちは最善をつくしています。ここには、あらゆる問題をかかえた子どもたちが来ます。コミュニティの厄介者、病院に行かなければならないような病気を患っていたり死にかけていたりするもの。精神の問題をかかえた子、家族から捨てられた子。ドラッグ中毒、軽犯罪に手を染めた子」。
 


アントニオは、寮母たちの研修の機会が不足していることについては認めている。「全員が研修を受けているわけではなく、現場に入って仕事を覚えています」。子どもたちの間で起きるケンカについては、ふつうの家族のなかで起こりうる程度のものだと話す。「年上の子どもが年下の子とけんかをすることがあります。私たちはこれをゆるしていません」。


アントニオによれば、RACの予算は、1年間に400万ペソだという。RACは、米に加えて、魚、肉、野菜を提供しているという。「食べ物は不足していませんよ。洗濯機や扇風機など、電化製品が古くなっているのは確かですが」。2015年には、RACを改装すると、アントニオはいう。


(※ フレデリコは写真が撮られた一週間後、バハイ・トゥルヤンに引き取られ、医療にかかることができた。検査の結果、多数の傷、栄養失調から、深刻な状況に陥っていたことがわかっている。)


バハイ・トゥルヤンは「私たちの介入によって、この写真の子どもは今、病気の子どものための施設で、十分なケアを受けることができています。彼が少しでも早く回復することを願っています」。と述べている。


この議論は、今始まったことではない。RACのやり方は、何年も前から批判を浴びてきた。しかし少しもかわらなかったと、市民活動家は語る。フレデリコは、RAC、ひどい貧困のサイクル、ネグレクト、虐待について、公の場であらためて考える機会を与えてくれた。


しかし、フレデリコのフェイスブックの写真は、誤解を招くものだとアントニオは批判する。フレデリコの状況は、実際は上向きだった。バハイ・トゥルヤンがRACで写真を撮った日はいつなのか曖昧だという。


「バハイ・トゥルヤンの気遣いには感謝しています。でも、この写真のフレデリコは、あんまりです。フェイスブックへの投稿はあまりに不当です」。


バハイ・トゥルヤンのスタッフとボランティアのなかには、外国人もいる。そのうちの多くがオーストラリア人だ。アントニオはその点を取り上げ、次のようにいう。「彼らは、政府に対して命令しすぎだ。まるで、自分たちが政府の首をにぎっているかのようだ。彼らは私たちの国の中にいるのに、まるで彼らが最善の方法を知っているかのようだ。正しいやり方というものがある。もし本当に助けたいと思うのであれば、もっと前からやるべきだろう」。


現在、フレデリコの写真は、1325回シェアされ、200を超えるコメントが寄せられている。人々は、子どもたちが、路上生活の末に、本当に安全な暮らしが保障されるようことを求めている。

【翻訳元】
RAPPER
http://www.rappler.com/move-ph/73464-rac-manila-frederico

戦後はまだ…90歳の元少年飛行兵


先日、山本宗補さんの写真展「戦後はまだ…刻まれた加害と被害の記憶」で、山本さんと少年飛行兵だった関利雄さんの対談を聞いた。


関さんが、飛行兵に志願をしたのは、16歳のとき。昭和15年に流行した「燃ゆる大空」という飛行兵の映画にあこがれ、志願したのだという。武蔵村山市にあった、陸軍飛行学校には1万人の応募があり、学科試験や身体検査、眼科の検診などを受けた末、合格したのは3000名ほど。それから1年間学んだのち、操縦士として選ばれたのは400人だった。関さんは狭き門をくぐり抜け、夢を叶えた一人だった。


飛行学校時代、航空記念日に駒込にあった自宅や、母校の上を飛び、皆が旗を立てたり、人文字をつくったりして歓迎してくれたことを懐かしそうに話していらした。


しかし、戦地での飛行は、「馬車馬のようだった」という。高度5000メートルを飛ぶと、機内は、マイナス30度になる。特別な装備もなく寒さと恐ろしさで震えた。寒さを忘れるのは、敵機をめがけて機関銃を撃ったときであったという。シンガポールでは、自らも機体を8発打ち抜かれ、あわや直撃という戦闘でB29を撃墜した。大空を飛びながら、夜の星や朝焼けの美しさも目には入らなかった。


戦闘が終わり部屋に戻ると、いつもどこかのベッドが空になり、また仲間が命を落としたことを知った。終戦の2か月前、部隊に特攻命令がくだった。


しかし、関さんにとって、もっと過酷だったのは、戦後であった。インドネシア領のレンバンでの抑留生活では、コブラでも、ニシキヘビでも動くものはなんでも食べた。中毒死で亡くなる者も多かった。骨に水がたまり、杖がないと歩けない状態であった。日本に帰国したあとは、「特攻くずれ」と呼ばれたこともあった。


2012年、関さんが撃ち落としたB29に乗っていた米兵の名前があきらかになった。搭乗員は全員死亡だった。来年には、遺族と面会の予定があると、話してくださった。


終戦から69年が経った今も、この写真展のタイトルの通り「戦後はまだ…」ということを痛感する。


写真展の会場には、50人の戦争体験者の肖像写真が展示されている。
戦争で孤児になった人、消えない傷を負った人、命乞いをした人々を殺さざるをえなかった人、戦後、戦犯になった人。


ここ数年で亡くなった方も多い。しかし、今もなお、生きている私たちに過ちを繰り返すなと訴えているようだ。


写真集「戦後はまだ…刻まれた加害と被害の記憶」には、さらに20人の戦争体験者の写真が加わり、ひとりひとりの体験談が掲載されている。生の体験を超えるものはあるまい。


ともすれば、概念的に語られがちな「戦争」とは、どんなものなのか。時代のスイッチを切る前に、ぜひ目に焼き付けておくべきだと思う。


この写真展は、8月10日まで浦和のギャラリー楽風(さいたま市浦和区岸町4-25-12)にて開催。8/22~23には、姫路市民会館(姫路市総社本町112番地)でも開催される。


また写真展の開催希望者も募集している。
http://homepage2.nifty.com/munesuke/exhibition/touring_exhibition.html


最後に、ストリートチルドレンを考える会から、平和を考えるチャリティパーティのお知らせ

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真夏のチャリティ・ラテンパーティ 
へいわって、どんなこと?~未来の子どもたちに残す世界を考える~


会員で絵本作家の浜田桂子さんの作品「へいわって、どんなこと?」を入り口にして、敗戦69 年目の夏に「真に平和な世界」について、みなさんと一緒に考えます。
絵本読み聞かせ&ワークショップのあとは、恒例の手作りラテン料理と400 年前の侍たちの世界旅を写真でたどる時間を楽しみましょう。


日 時 8 月9 日(土)6PM~10PM  
 6:00~6:45PM   絵本「へいわって、どんなこと?」をよむ
 6:45~7:30PM   ワークショップ「暴力とは?」        
 7:30~8:30PM   ディナータイム(9PM 以降も)      
 8:30~9:00PM スライドトーク「伊達侍と世界をゆくpart2」


場 所  池袋・がんばれ!子供村 2階  池袋駅より徒歩10 分 
参加費 1000 円(飲食代+現地NGO への寄付)
申込み info@children-fn.com もしくはfax:03-3818-0796  


※料理の準備のため、参加される方はできるだけ事前にお申し込みください。

オレンジを差し出した少年―2014年5月福島にて―


5月17日、私は福島県相馬市にある原釜幼稚園を訪ねた。


2011年3月11日、幼稚園のある原釜地区は、津波によって大きな被害を受けた。家族で幼稚園を経営している高橋さん一家の息子、司さんは、以前、私の友人とともにメキシコでストリートチルドレンの支援をしてきた方だ。


その縁から、震災後、近隣の町にボランティアに行っていた私は、何度か司さんとは電話でやりとりをさせていただいた。だが、実際にお会いするのは今回が初めてだった。


シンとした休日の幼稚園の部屋のなかには、子どもたちの描いた絵や遊具が並んでいた。


津波によって司さんの実家は流されたが、高台にあった幼稚園は残った。少しでも早く、子どもたちに震災前のような生活を取り戻してほしいと考えた司さんは、ガソリンも入手困難なうちから、自転車で避難所を回って「タダでもいいから、来てほしい」と親たちを説得し、震災の一か月後に幼稚園を再開した。


子どもたちのなかにも自宅を流された子は少なくなかった。また原発事故の影響を心配して県外に避難した子、逆に、より原発に近い地域から相馬市内に避難してきた子がいた。園を再開してまもないころ、子どもたちは、「津波ごっこ」といって水をひっくり返し、「〇〇ベクレルだー」と言って遊んでいた。


震災前60人以上いた園児は、現在30人程度に減っている。おじいさんの代から続いてきた幼稚園の歴史のなかで最低の数だ。


漁師をしていた親が職替えを余儀なくされて、生活形態が変わり、子どもが保育園に移ったこと、幼稚園から海が近いのを嫌がって、転園していく子がいたことなどが背景にあるという。


さらに、放射能の懸念から250万円をかけて、園庭の砂の表面を入れ替えねばならなかった。半額は助成金が出たが、半額は幼稚園の負担だ。しかし、仮に国が全額負担をしたとしても、それでよかったという話ではない、と司さんはいう。そもそも原発事故さえなければ必要のなかった作業であり、その間、子どもたちは外で遊べたはずなのだから。


発育の著しい時期に外で遊べなかった子どもたちは、体の使い方が不器用で、ブランコをうまくこぐことさえできない。津波は免れたものの、大地震を受けた建物は、ダメージを負っているため、いずれ改修が必要になってくる。
傷ついた天井を見ながら、「これからです」と司さんはいった。


その日、福島に向かう予定だった私は、会議のため二本松市に向かう司さんと生後10か月になる娘さんの車に同乗させていただいた。


「娘には、自分が生まれた環境を嫌いにならないでほしいですね」という司さんの言葉からは、相馬を思う強い気持ちが感じられた。


これまでにも、幾度となく福島で、地元のことを愛おしそうに語る人たちに会ってきた。そして、そのたびに自分にはそう思えるものがあるだろうかと考えさせられる。


この日は、各地で運動会が催されていた。
車が福島市内に入ったのは、12時過ぎだったが、体育着姿で帰る小学生と保護者たちの姿をよく目にした。放射能の影響を考えて、外でお弁当を食べることはさせず、時間も短縮して、午前中で運動会を終わらせる学校が多いのだと聞いて、驚いた。
運動会といえば、ある意味、お弁当が一番の楽しみではないか。もともと福島県内では、運動会は地元の祭り的な要素も色濃く残っていたという。親たちも気合を入れてつくった弁当を広げるのを楽しみにしていたことだろう。


一年に一度の、ささやかな楽しみさえも原発事故は奪ってしまったのだ。


それから次の目的地まで送ってもらい、司さんと別れた。道中、私が何かと時間をとらせてしまい、司さんは会議に急いでいたのだが、さらにそこから先は「除染作業中」という立札によって、車の進路がふさがれ、迂回しなければならないというハプニングもあった。


福島市内を歩くと、にぎやかな街のなかに屋内プレイグランドや放射能測定所の看板を見かけた。これも原発事故の前にはなかった光景だろう。福島の地方紙を開くと、全国紙には載らない、多くの福島の厳しい現実が報じられていた。


「復興」が「もとの生活に戻ること」だとしたら、それは無理だと福島の人たちはいう。
原発でつくられた電気を享受してきた私もあらためてこの現実を重く受け止め、見続けていかねばと思う。


一方で、司さんのような青年の存在に、希望を求めずにはいられない。


震災直後の電話、司さんが「僕たちよりメキシコのストリートチルドレンのほうがよっぽど大変です」と話していたことを、よく覚えている。家を流され、原発事故が起き、混乱のまっただ中にいたはずなのに。


そのときのことを司さんにたずねると、ある少年のことを話してくれた。「震災のあと、日本のニュースを聞いた少年が『司が困っているんだろ、これをやってくれよ』って、たまたま一つだけ持っていたオレンジを差し出したっていうんです。その話を、スタッフから聞いて。そのときだって、ぼくのほうがずっといろんな物を持っていたのに。あ~、甘いこと言ってらんないなって」。


家がなく、お金もなく、頼れる家族もいないなかで育ってきた少年。そんな彼の自分を勘定に入れない行動こそが、司さんを後押ししてきたのかもしれない。

Nスペ「女性たちの貧困」と
スモーキーマウンテンの「貧しく豊かな人」


2009年の厚生労働省の発表によると、日本の子どもの相対的貧困率は15.7%。
7~6人に1人の子どもが貧困状態といわれている。


中塚久美子著「貧困のなかでおとなになる」によると、2008年の厚生労働省の調べで、保険証がない無保険の子どもたちは、3万2000人以上にのぼったという。病気になっても、経済的理由から、医療にかかれない子どもが相当数いると考えられる。


また、生活保護世帯の子どもの進路を見ていくと、高校進学率はほかの世帯の子どもの高校進学率より10%低い。公立高校では、学費の減免申請をすることもできるが、減免申請者が多い学校ほど、中退率が高いという傾向があらわれている。経済的な困難から高校生活をあきらめる子が多く、それが貧困の再生産につながっている。


しかし、こうした数値を聞いてもまだ、日本で子どもの貧困が広がっているという実感は持てないかもしれない。大人の路上生活者はすでに都市部の日常的な光景になってしまったかもしれないが、ストリートチルドレンのように路上に寝泊まりする小さな子どもに会うことは、めったにない。


私がフィリピンのNGOの話をすると、「なんだかんだいっても、フィリピンにくらべれば、日本のほうがずっと恵まれていますよね」という反応が返ってくることがある。


だけれど、日本の貧困について見ていくと、フィリピンとはちがった、「実感がない」からこその肌寒さをおぼえる。


先日、NHKスペシャル「女性たちの貧困~“新たな連鎖”の衝撃~」では、ネットカフェに長期滞在する女性たちの姿が報道された。


そのなかには2年半にわたって、ネットカフェで生活している母と二人の娘がいた。シングルマザーの母は准看護士として働いていたが体調をくずして、家賃を払えなくなり、ネットカフェにたどりついた。  


3人はひとりずつ別々のブースを借りている。19歳の長女はコンビニでアルバイト、次女は中学生だが、半年以上学校に行っていない。食事は、1日1食、長女が買ってくるパンのみ。1日の大半を、パソコンをながめて過ごす。


母親が元気だったころに長女が書いたという作文には、母がいっしょうけんめい働いていること、そんな母を尊敬していること、将来母を楽にさせてあげたいという思いがつづられていた。


見ていて、「これほどまでに追いつめられているのに、なぜ生活保護を申請しないのか?」という疑問が浮かんだが、番組では特にそれに触れていなかった。だが、この母子に限らず、最低基準を下回る生活をしていても、生活保護を受けていない世帯が多いと聞く。日弁連の資料によれば、生活保護対象者のなかで、実際に制度を利用している人は、2割にすぎないという。


自己責任論、生活保護バッシング、目に見えない空気の流れが、彼女たちをネットカフェに閉じ込めてしまったのだろうか。


わずかな生活の糧を得るために、コンビニのアルバイトに行く長女。だが、彼女から弁当を買う人たちは、目の前にいる少女の事情など気づくこともないだろう。


フィリピンのテレビ局GMAの番組「I witness」で放送されたドキュメンタリーで、「pobreng mayaman(貧しく豊かな人)」という作品がある。舞台は、スモーキーマウンテンがあるマニラ最大のスラム。登場するのはフィリピンの最貧層の人たちだ。だが、中心人物エリーの周辺には、日本のネットカフェとは、まったく対照的な密度の濃い人間関係が展開されている。


「貧困」とは何だろう、「豊かさ」とは何だろう。


5月10日(土) 18時~ 池袋・がんばれ!子供村にて、この映像作品「pobreng mayaman(貧しく豊かな人)」の上映会を開催します。 お時間のある方はぜひお越しください。ぜひ多くの人と、意見を交わしたいと思っています。


詳細は以下の通り。

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フィリピンTVドキュメンタリーを通して考える「豊かさ」


フィリピンのテレビで放送されたドキュメンタリー「貧しく豊かな人(貧困地区の暮らし)」をみることを通して、現地で長期ボランティアをしたメンバーや現地スタディツアーに参加した若者と共に、貧困問題と「豊かさ」について、考えます。


日時  5月10日(土) 18時~  
 ・ドキュメンタリー上映(タガログ語・ 簡単な通訳有り)と解説
 ・現地滞在経験者を交えた座談会
   
その後、20時~ ワンコイン(500円)ディナー *手作り料理&市販総菜&ドリンク


場所  池袋・がんばれ!子供村 2階  ★池袋駅より徒歩10分


参加費 会員100円  非会員200円 *高校生以下は無料 ★ワンコインディナーは別


申込&問い合わせ E-mail: info@children-fn.com  Fax: 03-3818-0796


※ディナーに参加される方はできるだけ事前にご連絡ください。

私たちはどう生きるのか? 映画「遺言―原発さえなければ」が問いかけるもの


映画「遺言―原発さえなければ」は、2011年3月から2013年5月まで800日間にわたり、飯舘村の酪農家たちに密着取材したドキュメンタリーだ。監督はフォトジャーナリストの豊田直巳さんと野田雅也さん。長年、世界の戦争、紛争の現場に足を踏み入れ、ていねいな取材を続けてきた二人だ。


フォトジャーナリストは人の不幸を切り売りする仕事だ、と言う人がいる。けれども、写真は、被写体との関係を如実に表してしまうメディアでもある。撮影者と被写体との距離がある程度近く、気を許した間柄でなければ、偽りのない喜怒哀楽を写真におさめることもできないし、見るものの記憶にも残らない。そして本が売れない昨今、この業界は食べていくのもままならないのが実情だ。
そのなかで、フォトジャーナリストをつづけてきた二人は、誠実で愛のある人たちだと思う。


編集を担当した安岡卓治さんは、これまで数多くのドキュメンタリーを手がけてきたが、これほど被写体との距離が近い映像を見たのは、初めてだったと話している。


映画はナレーションや説明的な字幕が一切なく、酪農家や農家、その家族の生の声だけで進んでいく。被写体となった人々はつくり手のシナリオにあわせて切り取られた存在ではなく、あくまで主体なのだと感じる。


ある人は線量の高い庭で「目に見えない戦場で戦っているみたい」と言い、ある人は「私らはばい菌じゃないよ。大丈夫っていわれているじゃん」と訴える。10年前、理想の酪農を求めて飯舘村に移住した若い酪農家は、子牛を前にして「売りたくねえな…。ちくしょう!」と叫ぶ。


この映画の主人公ともいえるのが、前田行政区区長の酪農家の長谷川健一さんだ。村内の11戸の酪農家のリーダーでもある長谷川さんは、区民の避難や放射能対策に奔走する。
映画のタイトルでもある「原発さえなければ 残った酪農家は原発に負けないで頑張ってください」という、遺言をのこして亡くなったのは、長谷川さんの友人でもある酪農家だった。この無念を訴えることを、長谷川さんは決意する。


長谷川さんは、同じく酪農を営んでいた息子に対して、ときには感極まって涙ぐむ監督に対しても、「自分でよく考えなさい」と厳しく温かく語りかける。絶望のなかで思考停止してしまいそうになる者を、長谷川さんは鼓舞する。


やりようのない悲しみを感じる場面がある。その一方で、ふっと笑いがこぼれるような夫婦の他愛ないやりとりがあったり、村民同士の真のきずなを感じさせる場面もあったりする。


この映画に写っているのは、原発に翻弄された人々だ。けれども、それでも変わらない大切なもの、自分の人生を貫こうとする人々のたくましさも同時に描かれている。


原発をどうするか、ということだけではない。私たちはどう生きていくのか、ということを、この映画は問いかけているように思う。


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「遺言―原発さえなければ」
取材 撮影 監督/豊田直巳・野田雅也
上映時間 3時間45分


劇場公開 ポレポレ東中野 
日時 2014年3月8日(土)~14日(金) 12:20~17:00
(途中休憩あり。各日とも上映後には、両監督とゲストのトークショーあり。)
前売り券2500円 当日券3000円


前売り券購入を希望される方は下記の公式サイトをご参照ください。
http://yuigon-fukushima.com/


もしくはブログ管理者 野口kazu.praca@gmail.comまでご連絡いただければ、対応いたします。

3.11後の個人的体験


昨年お会いした報道番組のディレクターの方がこう言っていた。
「もう原発の取材をしても、取り上げられないことが多いんです。みんな原発のことを考えるのに疲れているんですね」。


2011年の3月11日から3年で何が変ったのだろう。いや、変わっていないのか。

【撮影:野田雅也(JVJA)】


巷のことはさておき、私個人のことでいえば、この3年間、ずっとモヤモヤしている。


東日本大震災の当日、幸い、家から近くにいた私は、何の痛手も受けることなく自転車で家に帰り、ずっとテレビの報道やネットから流れてくる情報を見ていた。
大津波が大勢の人を飲みこんだ、町がなくなった、ということはなかなか信じられず、実感が持てずにいた。
だが、福島第一原発の爆発の瞬間の映像を見たとき、震えて涙が出た。チェルノブイリや東海村の臨界事故について書かれた本、被爆者の方の証言が思い出され、恐ろしくなった。


津波による死者の数はどんどん更新されていき、かろうじて命が助かった人も、寒さと飢えに苦しんでいる。それでも、だんだんと原発事故の続報が気になるようになった。政府は「ただちに健康に影響はない」というけれど、子どもたちが大人になるころは? 原発の作業現場はどんなことになっているのだろう?


ネットではすぐに「ヨウ素剤はどこで手に入りますか?」「これから東京を脱出します!」「政府のいうことを信用するな」といった投稿があふれた。その一方で、そんなに心配しなくてもだいじょうぶ、ふつうに生活をするのが大事といった主旨の投稿もあった。だが、両者の考えは、相容れるのは難しく、しだいにお互いを批難するようなやりとりに発展していった。「ひとつになろう 日本」というキャッチフレーズを虚しく聞いた。


震災から1か月後、時間ができた私は、福島にボランティアに向かった。被災地のなかでも福島を選んだのは、他県に比べてボランティアの数が少ないと聞いていたからだ。実際に福島がどんな状態であるのかも知りたかった。


南相馬市に入ったのは、原発がメルトダウンしたというツイートが飛び交った翌日で、防護服を着た自衛隊の車が行ったり来たりしていた。30㎞先では異常な事態が続いているのは、確かなようだった。


それでも、ボランティアセンターには、何事もなかったように人々がやって来た。地元のボランティアと、私のように県外から来たボランティア、あわせて20名ほどで家の泥出しに行った。家のご主人は無言でボランティアを迎えた。家の損傷は激しく、もう一度ここに住むことができるのか定かではなかったが、しだいに泥が取りのぞかれていく家を見て、ご主人の顔がやわらかくなっていった。


作業の間に、地元の方と話した。介護施設で働いていた女性は、避難のストレスから亡くなった利用者がいたこと、自分は仕事を失ったこと、それでも県外からもボランティアが来ていることを知って、自分も市内の復興に協力しなければと思ったことを話してくれた。


二十歳前後の若い女の子はこんなことを言っていた。「同級生の半分くらいはもう、外に出ていっちゃって。残っている友達との間では、よく『あいつは逃げた』って話になるんだ。出ていった友達の気持ちもわかるんだけどね。でも、私たちはここにいるしかないから、これくらい言わせてよって」。


すべての作業が終わったあと、感情を表すのがあまり得意でなさそうなご主人が「ありがとうございました。これでがんばれます」と言ってくれた。


このほかにも、福島では本当に多くの出会いがあった。
ほんの数日、手伝いにやってきただけの私を家に泊めてくれ、手料理でもてなしてくれた老夫婦(子どもと孫は避難中)。
避難区域のすぐそばで泥かきをしながら、行方不明の自分の親と子どもをさがしつづけている男性。
未曾有の天災、人災にも折れることなく、じっとこらえている人たちがいることを知った。


そのころツイッター上では「福島は危ない」「早く避難して」というツイートが、毎日のように飛び交っていた。発信している人のなかには私がふだん親しくしている人も大勢いたし、その背景にある考えには共感するところも大きかった。すべて善意からの発言なのだ。けれども、福島の被災地に立つと、その善意からの発言が何にもならないどころが、踏みとどまっている人をさらに傷つけてしまうことを知った。私も知らずに誰かを傷つけていたことがあったかもしれないと気づいた。


「原発はいらない」。この3年間、いろいろな人がそれぞれの形でその思いを表現してきた。私もいらない、と思う。けれども、脱原発の先頭に立つ人の言葉が抽象的であるとき、そして力強いものであれば、あるほど、いま、福島で暮らす人たちにはどう聞こえているのだろうか、と気になることがある。


そんなところへ、友人が800日間にわたって撮影を続けてきた福島の記録が、映画として完成したと知らせが届いた。送られてきたチラシには、満面の笑顔で笑っている飯舘村の人々の写真と「生きるために笑いまっしょ」という、コピーがあった。
このチラシを見たら、なぜかふいに涙が出た。


この映画「遺言―原発さえなければ」は3月8日~14日までポレポレ東中野で公開される。(続く)

カルメンのクリスマス


日本に帰ってもうすぐ一年になるものの、フィリピンとの関わりは続き、滞在中の記憶もまだ鮮明だ。とりわけ、2年続けてバハイ・トゥルヤンに泊まり込みで過ごした、クリスマスから年越しの記憶は色濃く残っている。


フィリピンでは、英語でberのつく月、つまり9月(September)からはクリスマス色が濃くなっていく。クリスマスソングが流れ、ツリーの飾りが売り出されるようになる。


日本のクリスマスといえば、子どもはサンタクロースにプレゼントをもらい、大人になれば恋人とデートするものになっているが、本場のキリスト教国フィリピンでは、クリスマスは何より家族といっしょの時間を楽しむものだ。
そのため、ふだんは家庭の貧困や生活環境の劣悪さからバハイ・トゥルヤンの定住ホームで暮らしている子どもたちも、クリスマス前から年越しまでは自分の家族のもとに帰っていた。


家庭に帰る子どもたちには、生米と缶詰、パスタ麺などを詰めた袋が渡された。震災直後に配った救援物資のように、飾り気のないものだったが、子どもたちは大喜びで持ち帰った。


というのも、フィリピン人にとっては、家族や親族と一緒に食事をすることが、いちばんのクリスマスの楽しみだからだ。クリスマス・イブからクリスマスにかけて食べる食事のことをノッチェ・ブエナと呼んで、大切にしている。また大晦日から新年にかけてもメジャ・ノッチェという食事をとる。食事の内容は、家の経済状態によってまちまち。日付が変わってから食べるのが正しい慣わしのようだ。(おかげで私は年始から激しい胃もたれにおそわれていた…)。


クリスマスを家で過ごしてきた子は、年明けのワークショップの時間に、去年いちばん楽しかった思い出として、クリスマスの絵を描いていた。「ごちそうはあまりなかった。でも、家族と一緒にノッチェ・ブエナを食べることができて幸せだった」。


こんなふうに次のクリスマスを心待ちにするフィリピンの人々を愛おしく思う。


その一方で、クリスマスでさえも、家に帰ることができず、バハイ・トゥルヤンで過ごす子たちも少なからずいた。


カルメンもその一人だ。カルメンは、15歳でバハイ・トゥルヤンに来て、17歳で小学校をようやく卒業した。やさしく年下の子を気遣い、スタッフの思いを素直に汲みとって行動する彼女は、みんなから信頼されていた。彼女がつくるアクセサリーは、とりわけきれいで、いつも飛ぶように売れた。


子どもの家庭環境については厳しい守秘義務があり、組織のなかでも、ソーシャルワーカー以外は、くわしい情報は知らされていなかった。けれども、おととし2月、病気療養をしていたカルメンの父が危篤になったと連絡が入り、カルメンは急いでかけつけたものの、死に目に間に合わなかったと、号泣する場面があった。


2012年のクリスマス・イブをバハイ・トゥルヤンで過ごした次の日、おじの家に遊びに行くというカルメンに同行することになった。こうしたときに同行するのは、本来、ソーシャルワーカーの職務なのだが、クリスマスはスタッフの多くが休みをとっているため、私が行くことになった。カルメンのおじの家は、バハイ・トゥルヤンからジプニーで2時間ほどのところにあった。近くには、フィリピンで戦没した日本の兵士を祀った「ジャパニーズ・ガーデン」がある。山あいの静かな場所だ。


ジプニーを降りると、カルメンは恥ずかしそうに私にぴたっとくっついて、歩いた。着いたのは、1DKほどの大きさのドアも窓ガラスもない、トタン屋根の家で、軒下にはたくさんの子どもがいた。だが、子どもたちはカルメンの顔をおぼえていないようだった。おばがカルメンの顔を見て、家の裏に招き入れた。
もし、カルメンの気がのったら、宿泊を許可しても良いとソーシャルワーカーに言われていたが、カルメンは無口だった。カルメンと年の近い従兄弟が、いろいろ話しかけてきたが、うつむいて黙っていた。


暗い家の中には古いテレビがあるだけで、ほかに家具らしいものは何も確認できなかった。おばはカラマイというもち米をココナッツミルクと黒砂糖で煮込んだものを差し出した。クリスマスだというのに、ほかに食事らしいものは残っていなかった。この様子では、カルメンを引き取ることができないのも、やむを得ない。


おじは、カルメンの父方の家族と異母兄弟はカルメンに対して何もしてくれない、小学校も途中までしか行かせてもらえなかった、あまりにも冷たいと私に語った。


おじの言葉に返事をしたり、うなずいたりするだけのやりとりが小一時間続き、カルメンが母についてたずねた。「お母さんは亡くなったときいくつだったの?」おじは、遠くを見ながら、ずいぶん前のことで忘れてしまったけど、まだ若かったよと答えた。おじは、カルメンの母が不幸な形で亡くなったことを話し、「なんで神があんな仕打ちをしたのか・・・。今でも信じられない」と首を振りながら話した。カルメンはそれをじっと聞いていた。


帰りぎわに、カルメンは大学に行きたいことを話した。「ソーシャルワーカーかエンジニアになりたい」というカルメンに、おばは「『エンジニア・カルメン』なんてかっこいいじゃない」と励ました。従姉たちは帰り際に100ペソ札をカルメンに差し出した。


それから半年後、カルメンが飛び級試験に合格して、大学に進むことが決まったと聞いた。ソーシャルワーカーになれるか、エンジニアになれるか、まだわからない。けれども、5年後か、10年後か、いつの日か、カルメンが自分の家族とクリスマスに食卓を囲めることを願っている。

支援する意味って、ナンスカね?



「あんな人を支援する意味があるのか、わからなくなりました」


以前、フィリピンのNGOにインターンとしてやってきた学生からそんな主旨のメールを受け取ったことある。「あんな人」といわれたのは、その学生より6、7歳くらい年上で、人柄が悪いわけではないが、勤勉性に欠け、仕事も長続きせず、そんないい加減な自分を隠すために嘘をついてしまう青年だった。


さまざまな事情から、「その青年」は日本から手厚い支援を受けており、学生にも「その青年」のためにひと肌脱いでもらう予定だった。だが、いざ本人と会ってみると、気持ちが萎えたという。学生の言い分は私もわからないでもなく、彼らの関係はそこで終わりとなった。


でも、せっかくお金と時間を費やしてフィリピンまでやってきた若い子たちが、そうして帰っていたことは残念に思う。
なぜ、そういうことになったのだろう。


日本のテレビが途上国の支援現場を取材すると、兄弟の面倒をよくみて、頭が良くて、将来は医者になりたいと目をキラキラさせて語る子どもの姿が紹介される。それを見て「ああ、この子が学校に行ければ、きっと将来は立派な医者になるだろう。そのためなら協力したい」と考える方も少なくないだろう。


現にそういう方々の浄財によって活動は支えられている。学生も胸を熱くしてフィリピンに来たのかもしれない。


けれど、現場(フィリピンに限らないと思う)に来ると、先進国の人間が思い描いていたような感動ストーリーには、そうそう出会えない。それどころか、支援者の善意が裏切られるようなこともしばしば起こる。


スタッフと同じように信頼し、仕事を任せていた子が、お金をくすねて行方をくらました。小さいときから、施設のなかで育ててきた子が恋人をつくって逃げた。学費を工面して二回も大学に進ませた子が、二回ともあっさりと中退して、未婚の母になった。支援してきたストリートチルドレンに脅され、ソーシャルワーカーがお金を巻き上げられた…。私が知る限りでも、そんなことが起きていた。


スタディツアーなどに参加して、短時間だけ現地の人と交流すると、子どもから大人までみんな笑顔で「ウェルカム」という。そんなオモテの明るさに、つい忘れてしまいそうになるが、彼らが生まれた環境は過酷だ。親のネグレクト、虐待。犯罪が多発するコミュニティ。がんばって働いても貧困から抜け出せない社会。


そんな環境に生まれても、夢を持ち続け、コツコツと努力をし、成功をおさめる人もなかにはいるだろう。けれども、それはよほど強靭な精神力と強運の持ち主だ。人から傷つけられれば、人を信用することができなくなる。まともな働き口がなければ、人生の目標など持てず、日々を生き抜くことに必死になる。それが自然なことだと思う。


バハイ・トゥルヤンのなかでも、一筋縄ではいかない子どもや青年たちは、日常的にもさまざまな問題行動を起こしていた。心が折られそうになるスタッフもいた。けれども、子どもに一方的に「出ていけ」という者はいなかった。そう言ってしまえば、彼らの人生は以前と何ら変わることがないと、みんな知っていたからだ。ときに厳しく接しながらも、チャンスを与え続けていた。


フィリピンでは、何かと過ちを犯した人に対して、「セカンド・チャンス」を与えることを好む文化がある。それにしても、チャンスの数が山積みになっている子もいた。18歳のエビリンもその一人だった。だが先日、そのエビリンが飛び級試験に合格し、中1から大学に進学できることになったと知らせが入った。


この先、彼女が無事に大学に通いとおせるかは未知数だ。もしかしたら、また周りをがっかりさせるようなことがあるかもしれない。
けれども、5歳も下の子どもたちにまじって、小学校の勉強からやりなおしていた彼女が、こうして大学に進学できたのは、スタッフの根気強い支えがあったおかげだ。


「支援する意味」なんて、そもそも最初はわからないものじゃないかと思う。
だれだって、自分の先の人生だってわからない。
この人を支援すればこんな成果がついてくる、なんて保障はどこにもないのだ。

誰を支援するかではなくて、どう支援していくか。
それを常に自分に問いかけながら、生きづらさに寄り添っていれば、たまには、ご褒美がある。
エビリンが、うれしい知らせをくれたみたいに。


ということで、最後に子どもとのかかわりを考えるチャリティイベントのお知らせ。

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★初夏のチャリティ・ラテンパーティ  子どもとのかかわりを考える☆ 

貧困や暴力が子どもたちにどんな影響を及ぼすのか。ストリートチルドレン
を取り巻く状況を学びながら、メキシコのNGOで活動してきた メンバーを囲んで、私
たちにできることを考えます。

そのあと、音楽を聞きながら美味しいラテン料理を食べながら交流しましょう。

 日時  6月8日(土) 18:30~22:00

 場所  東京/池袋・がんばれ!子供村 2階
      *JR・西武線 池袋駅より徒歩10分
      http://www.kodomomura.com/access.html

 参加費  1000円(飲食代+海外NGOへの寄付)

 内容  ・NGO「プロ・ニーニョス・デ・ラ・カジェ」で5年間働いたメンバー
      による子どもの心を考えるワークショプ

     ・手作りラテンアメリカ料理&スペイン料理と、音楽を楽しむ!(ワイン
      やソフトドリンク等のドリンクも用意しています)

     ・篠田有史のスライドショー「フィリピン・墓地で暮らす子どもたち」

 予約& 「ストリートチルドレンを考える会」へメールで。
問い合わせ   e-mail: info@children-fn.com 
      *当日参加も歓迎しますが、料理等の準備のために、できるだけ
      人数を把握したいので、予約メールをいただけると助かります。

☆ストリートチルドレンを考える会  URL : http://www.children-fn.com/

バハイ・トゥルヤンに学ぶ自分で選びとる平和教育


昨年11月、日本で年内に解散総選挙がおこなわれることになったと聞いて、フィリピンにいた私は、なんとも心がざわざわした。そんなに早く選挙になると思わなかったので、何もせずにいたのだが、外国から日本の選挙に参加するには、かなり複雑な手続きをせねばならず、届出から1か月くらいの時間を要するという。棄権するしかない。


それまでそんなに選挙に関心があったわけではない。記憶の限り、いつも投票には行っていたはずだが、少々面倒くささを感じつつ、家族にうながされ、義務感で行くことが多かった。そのくせ、いざ選挙に参加できないとなると…、悔しいのだ。


あまりの悔しさに、SNSでは選挙管理委員会のよろしく「投票に行こう」と友人によびかけ、家族からメールがくると、返事の最後に「絶対に選挙には行くように」と、付け加えた…。


そのとき、身を持って知ったのは、権利は失われて(私の場合、失ったわけではないが…)はじめて、その大切さがわかるものだ、ということだった。

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ここから、まったくレベルのちがう話になるのだが、ストリートチルドレンは、本当に基本的な権利が保障されていない。


たとえば、日本もフィリピンも批准している国連の「子どもの権利条約」では、十分な栄養を得て健康に育つ権利や、虐待・暴力から守られる権利、教育を受ける権利を、子どもは生まれながらに持っていると定めている。きちんと食事をとる、危険から守られる、学校に通う。どれも日本ではまだ当たり前に感じられることで、こうした権利を守るための制度もある程度整っている。


だが、フィリピンの貧困層の子どもたちは、こうした基本的なことが保障されていない。
何より悲しいのは暴力のある光景や衛生的ではない環境、学校に行けない生活のほうが、子どもたちのなかで当たり前になってしまうことだ。その日の食べ物を手に入れるために毎日を費やし大人になっていく子、シンナーの誘惑がいつも側にある子、親からの暴力に何年も、ひとりでじっと耐えていたという子もいる。


バハイ・トゥルヤンとつながることができた子たちも、それぞれ大変な環境で暮らし、長年学校に行っていなかった子だ。だが、そのなかには頭がよく、向上心の強い子がかなりいる。実際にバハイ・トゥルヤンの定住ホームで暮らし、学校に通うようになると、優秀な生徒として表彰される子がたくさんいる。


特に優秀な子は、奨学金を受け、大学を卒業した子どもは、ソーシャルワーカーになって、かつての自分と同じような子どもの支援に取り組んでいる。しかし、バハイ・トゥルヤンのようなNGOのサポートがなかったら、彼らはいまも路上で暮らしていただろう。


今もフィリピンの路上には、ストリートチルドレンが何万人といるはずだ。しかし、いくらNGOががんばっても、そのすべての子をサポートすることは不可能だ。NGOの活動には常にこうした歯がゆさがつきまとう。


それでも、一人でも多くの子どもたちが少しでもよく生きられるための方法を考えた末、バハイ・トゥルヤンは、子どもたちが本来、自分が持っているはずの権利に気づくことが大切だと考えた。


自分自身がかけがえのない存在であることに気づいて、人生に対してもっと積極的になってほしい。自分を愛し、それと同じようにほかの子どものことも大切にしてほしい。コミュニティやフィリピンで起きていることに対して問題意識を持ち、困ったときには信頼できる大人にSOSを出してほしい、と考えたのだ。


そうしてバハイ・トゥルヤンは10年ほど前から、子どもを対象とした権利トレーニングを行っている。これは「子どもの権利条約」が掲げている権利について、絵を描く、歌う、踊るなどフィリピン人の大好きな遊びの要素もとりいれて、学ぶものだ。


さらにトレーニングに参加した子どもが、ほかのストリートチルドレンたちをサポートできるように、チームワーク、リーダーシップを養成するトレーニングも行っている。

ストリートチルドレンだったダイアナ(手前右)。今は子どもたちの頼れるリーダーだ。家では養子を育てている。


このトレーニングには、バハイ・トゥルヤンの支援を受けている子に限らず、近隣のコミュニティの子も参加できる。このトレーニングを受けた、近隣コミュニティの青年たちは、小学校で児童虐待をテーマにしたビデオ上映会を開き、もし、家庭のなかで虐待を受けたら、だれに助けを求めたらいいかを教えていた。


こうした青年が育っていくことは、フィリピン社会にとっても、非常に重要だと思う。300年以上にわたって植民地支配されてきたフィリピンでは、今も、外国資本が経済界で重要な位置をしめている。さらには、海外出稼ぎ労働者からの送金が、国家予算の1割を占めるほど、外国への依存度が強い。またフィリピン人のなかでも国内の9割の財産を持っている1割の富裕層(華僑、スペイン系が多い)が、政治、経済を掌握している。


こうした構造のなかで、支配されることに慣れてきた中流階級以下の人々は、トップが自分たちに都合よく決めたしくみのなかで生活している。労働環境の悪さや行政の怠慢に理不尽さを感じてはいても、どこに問題があるのか、どのように改善されるべきかを、立ち止まって考え、意見をのべる人は多くはない。それよりも日々の生活の糧を得ることで精一杯なのだ。


しかし、問題意識にめざめた青年たちが、草の根レベルからでも、新しいアイデアを提案し実践していくことができれば、きっとフィリピン社会はもっと健全なものになるはずだ。


そして今は日本の中でも、無自覚に与えられていた平和、セーフティネットがどんどん揺らいでいる。こうした時代のなかで、私たちもバハイ・トゥルヤンの実践から学べることはたくさんあると思う。


ということで、4月13日、池袋の がんばれ!子供村にて、バハイ・トゥルヤンが行っているワークショップを行う予定です。ワークショップのあとは、スペイン、メキシコ、フィリピンの料理を味わうチャリティパーティもあります。詳細は下記の通り。お時間のある方はご参加ください。

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☆子ども目線で「みんなの幸せ」を考えるひととき☆ 
    春のチャリティ・ラテンパーティ

日時  4月13日(土) 18:30~22:00

場所  東京/池袋・がんばれ!子供村 2階
      *JR・西武線 池袋駅より徒歩10分
      http://www.kodomomura.com/access.html

参加費  1000円(飲食代 + 海外NGOへの寄付)

・手作りラテンアメリカ料理&スペイン料理と、音楽を楽しむ! 
(ワインやソフトドリンク等のドリンクも用意しています。)
・NGO「バハイ・トゥルヤン」のワークショップを体験!

予約&問い合わせ 「ストリートチルドレンを考える会」へメールで。
e-mail: info@children-fn.com

*料理等の準備のために、できるだけ人数を把握したいので、予約メールをいただけると助かります。

路上に届けた写真



そういうものだ、とわかってはいたけれど、海外ボランティアは「自分には何もできない」という痛感のくり返しだ。だけど、どんな小さなことでもいい。世界に70億という人がいるなかで私たちが出会えたことに、何か意味はあったのではないかと思いたい。


2011年12月の2週間、ビクトリアという少女がバハイ・トゥルヤンで生活した。年は12歳くらいだったが髪を刈り上げ、あちこちの木に登る彼女は、男の子にしか見えなかった。気も強くて、気に入らないことがあると、こぶしで叩こうとする。ちょっと大変な子だから気をつけなさいといわれた。


しかし、ビクトリアがそんな行動に出るのにはわけがあった。生まれつき耳が聞こえず、字の読み書きもできなかったのだ。彼女の母親もろう者で口をきくこともできず、そのために男性からひどい仕打ちを受けてきたようだ。バハイ・トゥルヤンでいちばん年上のテレサは、自分もろう者で、やさしい性格だったため、なにかとビクトリアを気にかけていた。しかし、ほかの子どもたちは、コミュニケーションをとるのが難しく言動が荒々しいビクトリアのことを、少し離れてみていた。


けれど、初めてのことだらけのバハイ・トゥルヤンの生活にビクトリアは目を輝かせていた。ほかの子といっしょにムカデ競争をしたり、ビジターからクリスマスプレゼントをもらったり。ルールのわからないボードゲームも、コマをポンポンと動かして、上機嫌だった。


その彼女が自分を撮った写真をくれ、と訴えたことがあった。ほかの子どもからもしょっちゅう写真をねだられていたため、私はほかの子といっしょに、次のワークショップのときにあげるからと制した。


でも、そのワークショップを待たずして、彼女はバハイ・トゥルヤンから去っていった。彼女のケースはバハイ・トゥルヤンではなく社会福祉開発省が担当しているもので、社会福祉開発省がビクトリア一家の住まいを用意したため、そこに移ることになったようだ。私はその事情を知らなかった。ちょうどソーシャルワーカーに連れられて出ていくビクトリアとすれちがったときに、ほかのスタッフから聞かされた。そしてそのスタッフは言った。「ビクトリアはなんてかわいそうなの。たぶん路上に戻ってしまうわよ」。
社会福祉開発省は、ビクトリアの就学まではサポートしてくれないらしい。
彼女に写真をあげられなかったことは後悔として残り、心に引っかかった。


だが半年後、通勤のためジプ二ーに乗っていた私は、ビクトリアの姿を見つけて、思わず身を乗り出した。彼女の家は、私のアパートとバハイ・トゥルヤンの中間地点の町にあるらしく、一日じゅう何もすることがないビクトリアは、町のなかをうろうろしていたのだ。


久しぶりに見たビクトリアはどこでどうしたのか、髪を金色に染め、ますます「ワルい少年」という感じになっていた。ほかのスタッフが、その町の市場でビクトリアを見かけ、大きく手をふったとき、彼女はびくっとして逃げたという。「きっと、万引きか何か悪さをしていたのよ」というのがそのスタッフの見方だ。小さい子をしたがえてボスみたいに歩いていることもあった。


けれど、たいがい私が目にするビクトリアは、教会の前でうつろな目をしてぽつんと座っている姿だった。


フィリピンを去る日が近づいて、私はどうしても彼女に写真を渡しておきたいと思った。ビクトリアとバハイ・トゥルヤンとの関係はもう終わっているのだし、外国人が余計なことをすべきでないかもしれない。けれど、写真を欲しいと強くねだった様子からすると、彼女のこれまでの人生のなかで、写真を撮られる機会などほとんどなかったかもしれないと思った。私のパソコンに保存しているビクトリアのポートレートは、愛らしい目でポーズを決めている。


休みの日、ビクトリアがよくいる教会の前でジプニーを下りた。町じゅうを歩いてさがすことも想定していたが、まさにその教会の前にビクトリアはポツンと座っていた。彼女はダンボールの切れ端にボールペンで熱心に何か絵を描いていた。


どんなふうに近づいていいのかわからず、後ろから少しの間、その様子をうかがった。バハイ・トゥルヤンに彼女が来たとき、まずは絵を描いて遊んだことを思い出した。子どもにとって時間の流れ方はゆっくりだ。路上で、それも音のない世界で過ごしている時間は、どれだけ退屈だろう。


少しすると、ビクトリアは側でジプニーの呼び込みをしていた男性に使っていたボールペンを渡した。その男性から借りたものらしい。毎日このあたりに立っている者どうし、顔なじみなのだろう。


ビクトリアはちらっと後ろにいる私に目をやったが、すぐに視線を体育座りしている自分の足元に移した。1年前のそれも2週間の短い間のつきあいだったから、私のことは覚えていないだろう。私は近づいて、バハイ・トゥルヤンのロゴが入った自分のTシャツを指さしてみせたが、横眼をちらりとやっただけだった。


写真を1枚差し出した。ビクトリアがひとりでポーズを決めているものだ。空虚な視線が写真の上に止まった。4枚ある写真を1枚ずつ渡した。3枚目のクリスマスプレゼントを持っている写真を渡したとき、ビクトリアは一瞬、目を細めた。写真を持ってきたことは、まちがいではなかったようだ。最後に写真の袋を差し出すと、路上生活の習性からか「これは、もう全部こっちのものだ」というような目をして、パっと取り、写真をしまった。


けれども、ビクトリアはすぐに柱のかげで、写真を取り出してしげしげと見ていた。もう一度、写真をしまって顔を上げたとき、私は持っていたカメラを見せて、「また写真を撮りたい?」というしぐさをして聞いてみた。彼女は無表情で目をそらした。静かに私を拒絶しているようにも見えた。


ビクトリアにとって、今の自分は写真に撮られたい自分ではないのかもしれない。私にはできることはもう何もないような気がして歩き出した。少し離れてから振り返って手を振ってみると、ビクトリアはやはり表情を変えず、でも手を振りかえしてくれた。


それから町のなかをふらふらと歩き、30分ほどしてから教会の前に戻った。彼女はもういなかった。代わりに彼女が絵を描いていた段ボールの切れ端があった。未完成のその絵は、コウモリのかたちをしていた。


それからもジプ二ーで教会の前を通るたび、ビクトリアの姿をさがしたが、その日以来、姿を見かけることは、しばらくなかった。日本に帰国する日が近づいてきた。もう彼女を見かけることはないのだろうか。写真を渡せただけラッキーだったじゃないか。そう思うことにした。


ところが、クリスマスの日。思いがけないかたちで、もう一度顔をあわせることがあった。その日は、ジプ二ーが混雑していて、私はめずらしく助手席に座った。例の教会の前に来ると、ビクトリアが一つ前に停車しているジプニーの運転手に手を伸ばし、お金をねだっているではないか。前のジープが行き、ビクトリアは私が乗っているジプニーの、ちょうど私が座っている助手席の窓から運転手に向かって手を伸ばした。


クリスマスで稼ぎが少しは入っているのか、今日の表情には子どもらしい生気がある。私は思わず身を乗り出して手を振り、「ビクトリア、元気?」と話しかけた。


ビクトリアは、私に気づいて、はにかんだ笑いを浮かべると、伸ばした手をひっこめた。そして私の発した言葉がわかったのか「だいじょうぶだよ」というように私の手をつついた。ほんの数秒のやりとりだった。


自己満足だとわかっている。
でも、そのときだけでも、彼女が私に物乞いをせず、ただ笑顔を向けてくれたことがうれしかった。彼女との接触はそれが最後になった。


それから2か月が経って、私はいま日本にいる。
彼女は、今日も教会のあたりをたむろしているのだろう。

プロフィール

野口和恵

フリー編集者・ライター。児童書編集にたずさわるかたわら、国内外の子どもを取り巻く問題について取材。

著書に「日本とフィリピンを生きる子どもたちージャパニーズ・フィリピノ・チルドレン」(あけび書房)がある。


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