Archive for the ‘ダイアリー’ Category

日本とフィリピンの子どもの夢から見えるもの


フィリピンの子どもの夢は何ですか?とよく聞かれます。フライトアテンダント、パイロット、芸能人、シェフという華やかな職業も最近は人気がありますが、ダントツ人気の職業は、医者と教師です。


数ある仕事のなかでも、医者や教師は、特に人の命や生活を支える責任の大きな職業。
「人を助けたいから医者になりたい」「子どもの役に立ちたいから教師になりたい」とストリートチルドレンや親と離れて暮らしている子が言うのを最初に聞いたときは、なんて健気!とジーンとしたものでした。


でも、フィリピン生活が長くなり、あちこちで子どもの夢を聞いていくと、「またか!」と思うくらい、医者と教師という答えが返ってくるので、違和感を持つようになりました。
貧困層出身の子どもが医者や教師になるのは、実際のところ奇跡のような確率だとわかってきたからかもしれません。でも、それだけではなくて、なんだか子ども自身と口にしている夢が、どこかしっくりとハマらない。そんな感じを持つようになりました。


そのぼんやりとした感じの理由がはっきりとしたのは、定住ホームで暮らす12歳のアンジーとのやりとりでした。


夏休み期間中、私が小さい子たちに裁縫を教えていたとき、アンジーは自分に割り当てられたスカートを持ちだして、これをズボンにリメイクしたいといいました。せっかく寄付でいただいたものなのに、もしも失敗して無駄にしてしまったら…という心配をよそに、彼女は大胆にスカートをカットしはじめます。途中で糸が絡まったりと順調ではありませんでしたが、コツコツと縫い合わせて、何とかズボンの形に仕上げました。


「すごい、ドレスメーカーになれるじゃないの!」と言った私に、アンジーはできたてのズボンをはいて無邪気に話しました。「私、ドレスメーカーになるのはイヤ。だって地位が低いんだもん。先生がいい」。アンジーが教師になりたいということは、彼女が定住ホームに来たばかりのころに聞いていました。


路上で暮らしている家族のところに帰りたいとよく泣きべそをかいているアンジーを見て、(これも教師になる夢を叶えるためよ…)と当時、胸の内に思っていた私は、彼女の生意気発言にちょっと肩透かしをくらいましたが、妙に納得しました。


安定した仕事というものが数少なく、階級意識の強いフィリピンで、子どもにもわかりやすい地位と収入を兼ね備えた仕事といったら、やはり医者と教師。仕事のない親、あるいは、いつも失業の危機におびえている親たちを見ている子どもがそう考えるのは自然なことかもしれません。


自分の適正や興味の先にある職業というより、経済的な基盤やプライドを築くことができる職業を子どもなりに選んでいるのでしょう。


同じ医療の仕事でも「看護師は賃金が高くないからイヤ、医者になりたい」と言っていた子もいます。(けど、そう言っている本人は、看護師の勉強にもついていけるかあやうい成績…)。


ちなみに、第一生命が2007~2008年に行った調査によると、日本の子どもたちの夢は、次の通り。
http://www.dai-ichi-life.co.jp/company/news/2008/pdf/2008_027_001.pdf

日本でも「安定しているから公務員」と考える子どもは増えているといいますが、それでもフィリピンにくらべれば、「夢」にバラエティがあります。これは、日本がまだ経済的にも文化的にも豊かな社会であることを映しているように感じます。


私は日本で編集者をしていたとき、「仕事の図鑑」という児童書の仕事で、50以上の職種の人たちにインタビューをして回ったことがあります。


その取材でお世話になった獣医さんは、子どもたちへのメッセージとしてこう語ってくれました。
「人を治療するお医者さんであれば、どんな世の中になってもなくなることはありません。でも獣医という仕事が成り立つのは、世の中が平和なときだけなんです。だから獣医になりたいという子には平和を守ろうとする大人になってほしいですね」。


確かに日本では人気職種の獣医ですが、フィリピンではペットクリニックは数がとても少なく、獣医になりたいという子どもにはまだ会ったことがありません。街中で骨と皮ばかりの泥だらけになった猫や犬をたくさん見かけるたびに、この獣医さんの言葉を思い出します。


子どもが自分の好きなことや得意なことを生かせる仕事を見つけて、その夢を叶えるためチャンスが公平に与えられる社会。そんな社会がいいじゃないか、と私は思います。そんな社会のために大人たちがしっかりしなければ…。そんなことを日本の投票日を前に思うのでした。

ここがヘン!?フィリピンの学校教育


「カズエー、宿題でこれをネットで調べないといけないんだけど…」。
子どもたちが学校から帰ってくるころになると、そんな猫なで声で子どもたちがやって来ないかと、いつもギクッとする。 


フィリピンの学校は、やたらとキーワードをネットで調べて、そのプリントアウトを提出する宿題を出すのだ。そのためバハイ・トゥルヤンの子も、近くのコミュニティの子もインターネットカフェに行って調べるのだが、お小遣いを節約したい子どもたち、もしくはとっくに買い食いに使ってしまって、お金のない子たちが私のところへやってくる。


オフィスには一応WIFIが入っているけど、調子が悪いことがしょっちゅうで、そんなときは家に帰ってから、ネットカフェに行きリサーチしなければならない。タガログ語の宿題などは意味もわからず、ただやみくもにキーワード検索をするしかなく、子どもから「これじゃなーい」と逆ギレされることもある。(もちろん、そんなときは、こっちも黙っていないけど)


子どもの宿題なのだし、お小遣いもあげているのだから、それをやりくりして、子どもがやるべきだろうと、日本人の私は言ったのだが、フィリピン人の感覚としては、子どもの宿題を親が手伝うのは当たり前らしく、それができない親に代わって、スタッフが調べることはさしたる問題でないらしい。現にうちの大家さんの家でも、教師をしている母親が、息子の宿題を一日がかりで手伝っている。


そんな親バカな文化にも思うところがありつつ、もっと疑問に思うのはフィリピンの学校のやり方。こうやってネットで調べて、そのプリントアウトを持参しなさいという宿題は、フィリピンのどこの学校でも同じ。フィリピンの多くの家庭は、生活に余裕があるわけではなく、こうした日々の宿題にかかるお金は結構な負担なのだ。


もちろん、子どもの教育のためであれば、親が何とかお金をやりくりすべき場面もあると思う。でも、これは果たして、そこまでの意味がある出費なのだろうかと思う。
だって、ネットカフェに宿題をしにきた子どもを見ていると、みんなキーワードを検索して、コピペしているだけ。内容をよく読まずに数分で終わらせて、あとはフェイスブックやゲームをしている…。


ほかにもフィリピンの学校は、何かと余計なところでお金がかかる。子どもたちが楽しみにしているクリスマスパーティはレストランで開かれ、子ども一人で貧しい家庭の一日分の稼ぎが飛んでいく計算だ。


そのほか、「サイエンスコンテスト」、「マスマティックスコンテスト」など、〇〇コンテストなるものが頻繁に開かれ、これにも参加費用がかかる。勉強のためのイベントなら意味のあるものだろうと思っていたけど、聞いた話によると、この実態は科学とも数学とも関係のない美人コンテスト、イケメンコンテストらしい。学校によっては、女子生徒がビキニを着て出場するところもあるらしく、以前スタッフ会議で問題となった。


それほどあからさまな美人コンテストは見たことがないけど、毎年10月にどの学校でも開かれている「ユナイテッド・ネイションデー」というイベントを見たことがある。「世界平和を願う」という主旨のはずなのだけど、校長先生の話以外では、そういうメッセージ性のあまり感じられないイベントだった。生徒の代表が世界各国の民族衣装を着て集うのだが、その衣装は生徒が自前で用意する。マニラの大きなマーケットには、いろんな国のなんちゃって民族衣装が売っているのだけど、毎年同じ国の代表に選ばれるとも限らず、親にとっては、これを買うのだって痛い出費だ。

ミス・ブルネイに選ばれた女の子の父親は、商売道具のサイドカーも娘仕様にデコレーションしてしまう親バカぶり。でも、サイドカーの運転手の生活も楽ではない。


もっとも、こうしたイベントごとを派手に行うのは、今のフィリピン文化の現れでもあり、保護者も生徒もそういうものだと受け止めているようだ。けれど、庶民の生活レベルに対して、ともかくお金をかけすぎるところは、何とかならないものかと他国のことながら思う。

宿題を提出できないために成績が上がらず、勉強への意欲を失ったり、親に気がねしたりして学校をドロップアウトする子も少なくない。


さらに庶民の悩みの種がまたひとつ。これまでフィリピンの学制は、これまでエレメンタリースクール6年、ハイスクール4年が義務教育だったのだが、今年度からシニアハイスクール2年を加えた12年が義務教育になった。

高校卒業までに12年間かかるということは、日本と同じだ。世界的にみると、12年制の国がほとんどで、世界の基準にあわせるために、12年制に意向したと政府はいう。


だがこれ、「義務教育がただ2年間延長された」。というのが実態のようなのだ。カリキュラムも決まっておらず、ただでさえ、不足している教室も、さらにすし詰めの状態になっているという。「先生は勉強とは関係のない話をしているよ」と話している子どももいた。
日本のように絶対的な権限を持つ学習指導要領みたいなものが用意されているわけではないのだ。


果たしてどれだけ教育的効果があるかわからない2年間分、家庭の出費ばかりが増えることを考えると、ますます経済的な理由から学校をドロップアウトする子どもが増え、格差も広がっていくのではないかと懸念する。

ジャスペルの世界


最初に会ったとき、ジャスペルは赤ちゃんのように見えた。路上に捨てられていた彼の実年齢は不明だが、後の医師の推定によると、当時は7、8歳だったということになる。地面にしゃがみこみ、特定のおもちゃをいじって離さない。言葉を話さず、遠くのほうをきょろきょろと見ているが、ふとした瞬間に、にこっと笑顔を向けることもあった。


その時、私は会社を辞めて、子どものころから考えていた海外ボランティアの道に踏み出すべく、初めて一人でバハイ・トゥルヤンを訪ねたところ。当時、定住ホームでは10代半ばの難しい年頃の女の子が多く、突然単身でやってきた日本人はおろおろするばかりだった。タガログ語の激しい言い争いがしょっちゅう。こっそりかげに呼び出して物をねだる子。すれちがうたびに、あんまり良い意味ではなさそうな言葉を投げつける子。どう関わっていいのかわからないまま、時間は経過していった。


そんなとき、ジャスペルが両手を上げて私に近づいてきた。抱っこをせがむしぐさだった。
ほかのスタッフにも同じようにしているのは見ていたけれど、私はよそから来たばかりの人間。びっくりした。そして、せがまれるままに抱っこをした。ジャスペルと一緒にいる時間は長くなり、ベビーシッターみたいといわれたりもした。不安だらけのなかでのジャスペルとの出会いは、その後の活動を後押しすることになったと思う。


その約一年後に再会したジャスペルは背がのび、身体も知能も発達していた。その成長ぶりはうれしかった。ただ、自我もはっきりと芽生えたところで、関わり方は難しくなっていた。


バナナが大好きなジャスペルは、台所の隅にバナナが置かれているのを知っていて、すばしっこく取りに行く。気づかないでいると、熟れていないものも、いくらでも食べてしまう。離れたところにある、ビジターの宿泊棟にも、お菓子がもらえることを期待して行く。それを止めようとしても、逃げ足がびっくりするくらい早くて、大人がダッシュで走ってもなかなか追いつかないのだ。つかまえると、噛んだり、ひっかいたり、髪を引っ張ったりして大暴れ、ということも。


ジャスペルのほかにもスラムやストリート出身の子ども25人が暮らしている施設のなかでは、整理整頓の徹底が難しく、いつもいろいろなものが落ちている。ジャスペルはそれを口に入れて飲みこんでしまうこともある。ジュースだと思って洗剤を飲みこんでしまったり、うんちからおもちゃのコインが出てきてドキリとすることもあった。


ジャスペルが昼寝をしているとき、ハウスペアレンツのひとりは疲れた様子でポツリといった。「ジャスペルを捨てた親の気持ちもわかるよ。こんなによく食べる子どもがいたら、とても生活していけないもの」。


前はかわいい弟として、面倒をみていた年上の女の子たちも、第一次反抗期まっただ中のジャスペルを敬遠するようになった。


けれども、ジャスペルの成長ぶりが、私たちを喜ばせてくれることもある。


ジャスペルは言葉を話せないけど、歌が好きだ。音感も悪くない。そばで歌を歌うと、すぐにそのふしを真似して歌う。「大きな栗の木の下で」「あくしゅでこんにちは」といった、日本の歌も覚えて歌えるようになった。


遊びの幅も広がった。ひとりでブランコをこぐことができるし、パズルをすること、ブロックを組み立てること、ボールペンを持って紙に線を描くこともできるようになった。ほかの子たちと一緒に遊ぶことはほとんどないけど、アンジェリカのことはお気に入りのようで、たまにちょっかいを出しに行き、鬼ごっこらしい遊びをしてもらうことがある。


そして、彼はきれい好きな面もあるようだ。まだ自分で用を足すことはできないけど、もよおしたときは、室内を汚さないように必ず自分から外に出ていく。前は嫌がっていた水浴びも、今はすっかり慣れてきて、バケツで自分の背中を流そうとする。(でも、勢いが良すぎて、いつも自分にはかからないのだけど)。この頃は、スプーンを使って食事をし、食事をしたあとのお皿を自分で洗って、元の場所に戻せるようになった。


最近こんなこともあった。バナナチップスをジャスペルにあげようとすると、そのときはお腹いっぱいだったのか、受け取っても自分で食べようとせず、私の口に運んだのだ。それは、ジャスペルにとっては「どうぞ」という意味のあるものではなくて、パズルをはめるのと同じような作業だったのかもしれない。けれども、急にジャスペルと立場が逆転し、少しくすぐったさを感じながら、パクリとそれを食べた。


ジャスペルが赤ちゃんだったのは、もうすっかり昔のことなのだ。最初に会ったときのことを思い出すと、これまでの成長ぶりがうれしく、そこに立ちあえたことに感謝する。


けれど、ジャスペルのこれからを思うと、不安と無力感がこみ上げてくる。


バハイ・トゥルヤンでは、ハウスペアレンツが24時間体制で子どもの面倒を見ているが、通常は、2人か3人ずつの交代制だ。専門のスタッフを雇用するだけの経済力はないため、ジャスペルのような子どもの教育を専門としている施設に移すことを予定している。


今でさえ、いろいろなことを吸収し、成長しているジャスペルが専門の環境に移ることができれば、もっといろいろな力を身につけることができるはずだ。それには少しでも早いほうがよい。しかし、受け入れ先の施設は、定員いっぱいで欠員待ちをしている子どもが大勢いる状態なのだという。また仮に移れたとしても、いつまでもそこにいられるわけでもないだろう。


大人になったジャスペルが生きていける場所はどこかにあるだろうか…。
彼が人間らしく生きられる場所がどこかにあってほしい、と願うことしかできない。

激論!ストリートチルドレンその3―
「私がバランガイオフィサーだったら」


フィリピン政府とNGOでは、支援内容には大きなギャップがある。でも、両者が敵対しあったところで、子どもたちにとってよいことはない。NGOとしては、できるところでは、政府ともっと連携したいと思っているのだ。


シンポジウムの最後に、NGOスタッフの一人として参加したシスターが社会福祉開発省(DSWD)のソーシャルワーカーにたずねた。「私たちの活動エリアには、本当に大変な状況の子が大勢いて…、自分たちだけでは力不足です。DSWDと連携したいのですが、DSWDの誰に連絡すれば、動いてくれますか?」静かな口調だったけど、いつも心につかえていることを切実に訴えているふうだった。


けれども…。DSWDのソーシャルワーカーは答えた。「こういうことは本来バランガイの仕事で、DSWDはそれをアドバイスする立場なんです。バランガイを巻き込むのが正当なやり方です」


フィリピンのバランガイは、日本でいうと町内会くらいの規模の地域のコミュニティ。けれど日本の町内会とちがい、行政としての権限を持っている。バランガイが小さな訴訟を扱ったり、条例を制定したりすることができるのだ。ソーシャルワーカーの言い分としては、1991年に施行された「地方政府法」で、ストリートチルドレン支援はバランガイの管轄になっているというのだ。


これはマルコス政権の後に誕生したコリー・アキノ政権下で決められた法律だ。独裁政権の反省のもとに地方分権化をすすめるという主旨であったというが、今となっては、この体制が政府の言い訳になっているように思えてならない。


バランガイには政府からの補助金は出ているものの、実際のところ、バランガイの予算の大半は寄付でまかなわれており、住民たちの生活レベル、外部とのコネクションがあるかどうかで、バランガイの予算規模は大きく異なる。また役員の手当ては安く、それだけでは生活を成り立たせることができないため(汚職がある場合は別として…)、ある程度生活に余裕のある人が、名誉職のつもりでバランガイ役員になっているのが実態のようだ。そのため、バランガイ役員にしてみれば、本業以外の仕事はできるだけ少ないに越したことはないというのが本音だろう。


これまで、いくつかのバランガイオフィスのヒアリング調査に同行したことがある。けれどもバランガイ役員のコメントと、あとで住民たちに聞いた話とではギャップがあり、バランガイ役員が子どもの現状について、実態を把握しているとはいいがたかった。「それはDSWDがやることですから」という言葉も何度も聞いた。


結局は責任の押しつけ合いか…と思う。こうして大人たちが涼しい屋内で話し合いをしている今だって、ちょっと外を見れば、炎天下のなか物売りをしているストリートチルドレンがたくさんいるのに。


そのなか、一年間路上で暮らした経験があり、今はバハイ・トゥルヤンのユース・エデュケーターとして路上の教育活動をしているダイアナの発言には力があった。「バランガイは、いつも私たちの話を聞こうとしません。子どものことなど重要ではないと思っているのです。私がバランガイのスタッフになったら、絶対にもっと良い状況をつくれます。私は自分が経験したことだから、何をすべきかがわかるのです」。


フィリピンの大統領にも日本の首相にも真似できない力強い発言だった。この日初めて、会場から拍手が上がった。


終了後、ダイアナにあなたのスピーチはすばらしかったというと、彼女は照れながら「だって私は自分が経験したことだもの。でも私はバハイ・トゥルヤンで働いているのが好きだから、バランガイオフィサーにはならないよ」という。
それは、うれしいような残念なような複雑な気分だ。


このシンポジウムの2回目は、今月開催予定だ。ストリートチルドレン、元ストリートチルドレンの声を多くの大人たちに伝え続けること。そうして相手の琴線が動いたとき、初めて少しずつ物事が動いていくのかもしれない。

激論!ストリートチルドレンその2―
「レスキュー」という危険にさらされる子ども

それにしても社会福祉開発省(DSWD)がプレゼンのなかで「ストリートチルドレン・ゼロ」という目標を強調していたのを聞いて、なんだか背筋が寒い思いになった。


フィリピン政府は、これまでもストリートチルドレンを助けるという目的で「レスキュー・オペレーション」なるものを展開している。表向きは、危険の多い路上にいるストリートチルドレンを安全な収容施設に保護するという名目だが、実態はレスキューとは程遠いものが行われている。


バハイ・トゥルヤンが2009年にまとめた調査リポート「Sagip or Huli?(救助それとも逮捕?)」によると、レスキューオぺレーションはおもに夜間行われている。ほとんどの場合、レスキューを実行する大人たちは、自分が何者であるかを子どもたちに知らせず、また子どもの名前も住んでいる場所も聞かずに、暴力で脅し車に乗せるのだという。眠っているところを突然たたき起こされ、車に乗せられたというケースもある。親に頼まれて買い物にいくとき、誘拐のように連れ去られたというケースもある。また連れ去られる際に、持っていたわずかなお金を取り上げられたり、持っていたものを壊されたという証言もある。



相手の大人が何もいわず、暴力をふるい車に乗せるため、子どもたちは恐怖におびえる。親たちは子どもが人身売買の犠牲になったのではないかと心配する。


また収容されている施設の環境は劣悪だ。つい先日、図らずもその施設を目にした。場所はマニラ首都圏のなかでも整然とした環境のマリキナ市。トヨタの大きな支店があり、トヨタアベニューという名前のついた通り沿いに、運動公園やプール、オートレース場などのレクリエーション施設があるのだが、オートレース場の向かい側に、檻の張られた建物があった。


前を通り過ぎると、檻のなかでは上半身裸の男の子たちがすし詰めになっていて、檻の前を通り過ぎる人に向かい、何か訴えるような目で手を伸ばしている。通りから丸見えになっているのでまるで動物園のようだ。いや、動物園の檻のなかにいる動物のほうが、もっとずっと快適な環境にいるだろう。


檻と檻の間にあるサインボードには「話しかけないでください マリキナ市社会福祉局」と書いてあった。何とか檻の外から食べ物をもらえないかと、したたかに考えていそうな子もいれば、ドラッグユーザーなのか、自分の状況に絶望しているのか目がうつろな子もいた。一緒にいた日本の学生たちは、その異様な雰囲気を怖がり、みんな足早に通り過ぎた。


前述の「Sagip or Huli?」のなかの証言によると、施設で与えられる食べ物は十分ではなく、取り合いのけんかもよく起きているという。シャワーを浴びることができたという回答は全体の3割にとどまっており、トイレがなく垂れ流しになっていた施設もあるという。そのために皮膚炎やほかの病気を患った子もいるようだが、施設側が医療サービスを提供していたという回答も3割程度にすぎない。


また、これらの施設内では遊びの機会がなく教育活動もほとんど行われていない。ストリートチルドレンのなかにも学校に行っている子はいるのだが、レスキューによって学校に通えず、勉強が遅れてしまったという現状もある。スタッフによる虐待、女子の場合には性的虐待を受けたという証言もある。


子どもがこの収容施設から出るには、保護者が迎えにいく必要がある。しかし、出してもらうには出生証明書や身分証明書を持参したり、現金を払ったりしなければならない。路上で商売をしている家族にとっては、数日分の稼ぎにあたるくらいの大金だ。親が迎えに来られない子どものなかには自力で脱走している子もいる。


いったい誰のためのレスキュー・オペレーションなのか。バハイ・トゥルヤンをはじめとするNGOは、ここ数年、政府に改善を求め、レスキュー・オペレーションの一時停止を要求している。しかし政府はこれまでのところ聞く耳持たず、レスキューの被害になる子どもが後を絶たない。


関連動画
Running from Rescue

(続く)

激論!ストリートチルドレン その1-名ばかりの福祉


8月31日、バハイ・トゥルヤンのマニラオフィスで、ストリートチルドレンを支援するNGOが集まって、ストリートチルドレンの支援のあり方をめぐるシンポジウムが開かれた。


現在フィリピンのストリートチルドレンは、推定24万6000人。そのうち大半を11歳から14歳の子が占めるという。


フィリピンの場合、ストリートチルドレンといわれている子どもの70%は、貧困コミュニティに家があるものの、生計を支えるために路上で物売りなどをして長時間を過ごす子たちだ。こうした子たちの場合は、学校に通えていることが多い。
残りの30%は家がないか、家があってもめったに帰らずに路上で暮らしている子だ。家族ともども路上に住んでいるケースが多いが、両親とも死亡または行方不明、虐待、養育放棄といった事情から、子どもだけで路上で暮らしている子も全体の5~10%にのぼっている。
特定の家を持たないストリートチルドレンの場合、学校に行けているケースはめずらしい。


このシンポジウムの参加者だれもが知りかったのは、政府の支援に対する考え方だった。
パネリストとして参加したフィリピンの社会福祉開発省(DSWD)所属のソーシャルワーカーからDSWDの取り組みについてプレゼンがあった。それによるとDSWDはNGOと同様に住宅支援、生活再建、教育活動などのプロジェクトを行っているという。そのほか、村からマニラに出てきたものの、仕事が見つからない家族に交通費を支給して、出身地に返すバリック・プロビンス・プロジェクトという独自の取り組みも紹介された。


ただし、一国の政府の取り組みにしては、DSWDのプロジェクトの恩恵を受けている人は少ない。たとえば、教育プログラムに参加している子どもは1年間で1000人あまりだという。内容のちがいもあるので、適切な比較ではないかもしれないが、参考までにバハイ・トゥルヤンの路上の教育活動に参加している子は、年間のべ5000人だ。また、バリック・
プロビンス・プロジェクトを利用して故郷に帰ったのは、一年でわずか9世帯だという。支援を必要としている人たちへのアピール、アプローチ不足の感は否めない。


プレゼンの後半ではDSWDがストリートチルドレン・ゼロ運動に取り組んでいるというアピールがあった。けれども、その優先地域としてかかげている10地域が読み上げられると、参加者の間からため息がもれた。優先地域として指定しているのは、マカティ、オルティガス、モンテンルパといった、マニラ首都圏のなかでも裕福でストリートチルドレンの数がもともと少ない地域ばかりだった。


子どもたちが路上に出てくる背景には、スラムの貧困や虐待の問題がある。そういった根本的な問題にアプローチしていかなければ、ストリートチルドレンは増え続けるばかり。それがNGOの共通認識だ。


プレゼンのあと、さっそく質問が出た。「ストリートチルドレンはスラムなどの貧困コミュニティから来る子どもが多いのに裕福な地域ばかりを優先地域にしているのはどうしてでしょうか?」


DSWDのソーシャルワーカーは、寝耳に水の質問だったようで困惑しながら「先ほどあげた都市では、ストリートチルドレンの姿が目につきやすいから、まずそこを優先地域にしているんです」という歯切れの悪い回答となった。


この政策をつくった政府の役人たちは、マニラ首都圏のごくごく限られた地域のなかだけで生活しているんじゃないだろうか? ジプニーなんか乗らないんじゃないだろうか? と疑いたくなる。


「そんなに裕福なエリアのどこにストリートチルドレンがいるんですか?」「結局はストリートチルドレンを街の外へ追い出すだけでしょう」という声が会場かちらほら上がる。一人の男性は立ち上がって、「DSWDはいつもストリートチルドレンに対して冷たすぎる」と自分の考えを話し出した。これに対して、どうこたえるのだろうと見てみると、ソーシャルワーカーを振り返ると、彼女は携帯を取り出していじり出し、発言が終わるまでの間をやり過ごしていた。


国家公務員の横柄な態度。最近の日本だったら、怒号のひとつでも飛んでもおかしくなさそうだが、ストリートチルドレンを前線で支援している人たちは辛抱強いのか、それとも階級意識の強いフィリピンだからか、みんなじっと黙っていた(続く)

12歳小学2年生「だから私は勉強したい」


定住ホームに暮らす女の子25人。1年も顔をあわせていると、相性の良し悪しが出てくるというか、なんだが気づくと横にいるという子がいる。12歳のマグダレーナがその一人。同じいて座O型ということが関係しているのかいないのか、良くも悪くも性格まで私に似ている気がする。


彼女は妹二人と2年近く定住ホームに暮らしている。両親は別れて、それぞれ別の家庭を持ち、姉妹はネグレクト状態だった。学校にも通うことができなかったため、マグダレーナは去年、11歳で妹二人と一緒に、日本の小学校にあたるエレメンタリースクール1年生に進学。今年、2年生になったばかりだ。


バハイ・トゥルヤンに来るまでの間、学びの機会が限られていた反動もあるのか、マグダレーナは「学ぶ」ということにとても貪欲だ。かけ算、時計の読み方、英語、日本語、ピアニカの弾き方、工作、料理、手芸、あらゆることに関心を持ち、それをマスターしようとする。


凝り性で負けず嫌い。工作をするときは、いつもほかの子の倍以上の時間をかけて、ていねいに作品をしあげる。でも、妹たちに邪魔されたり、時間が足りなかったりして、自分の力を発揮しきれないときは、へそを曲げてしまって、ちょっと大変。


新しいことを覚えたときは、うれしそうに、ハウスペアレンツに「こんなこと覚えたよ」と得意げにいう。ちょっと調子にのって、ほかの子に「これ知らないの? 簡単だよ」といったりする面倒なところは、私にも似ているので、そこは一緒に成長しなきゃねー、と思っている。


今年5月、定住ホームに明るいニュースが飛び込んできた。
フィリピンには、オルタナティブ・ランニング・システムという制度があり、10月に全国で行われる統一テストをパスすれば、飛び級で進学できるのだが、なんと定住ホームから4人も合格者が出たのだ。


マグダレーナと同じ12歳で、なにかとライバル意識を燃やしているジェシーもその一人。彼女も学校に通えない時期があり、今年3月までは小学3年生に在籍していたが、6月から日本の中学、高校にあたるハイスクールの1年生に進学した。


これは定住ホームの少女たちに希望を与えた。
とくにマグダレーナは、次は私が合格して来年はハイスクールに行くと意気込んでいる。 


今、10月の統一テストに向けて、毎週土曜日、子どもたちは丸一日特別授業を受けている。最初の授業では、「教育」について作文を書くという、ちょっと難しい課題が出された。


「最初は書けなくて泣いちゃった。もっと長く書かないとだめかな?」と言いながら見せてくれた作文には、こう書かれていた。


「教育は人間にとって大切なものです。教育を受ければじょうずに読むこと書くこと話すことができるようになります。私は、前に先生が言っていた言葉が忘れられません。『教育は、いつの時代でも価値のある財産です。そしてそれは誰も盗むことができない財産です』
だから私は勉強をすることが大事だと思います。いい成績をとれるようにがんばりたいと思います。」


学校で、自分より3歳も4歳も年下の子のなかでは難なくトップクラスの成績をとっているマグダレーナだが、学校に行っていなかった時期のブランクを埋めるのは、簡単ではない。その日の特別授業のテストでは、思うような点数がとれなかった。


「私はバカだー」とボロボロ涙をこぼして、自分の手を椅子に何度も打ちつけた。自分を見捨てた親への苛立ち、親に見捨てられた自分への苛立ちが噴き出すのか、たまにマグダレーナはそうやって自分を痛めつける。


もっとじょうずに書くこと話すことができたらマグダレーナはもっと自分の感情とうまくつきあえるようになるだろうか、と思いながら背中をさする。


けれども、マグダレーナの強みはやはり学びへの貪欲さ。感情が落ち着いてくると、さっぱりとした表情で「次はこれを勉強したい、教えて」といった。
試験の結果が出るころには、私はもうフィリピンにはいないだろう。でも、マグダレーナには、ずっと学ぶことをやめない大人になってほしい。そして、だれにも盗むことができない彼女だけの財産を築いてほしいのだ。

*プライバシー保護のため文中の名称は仮名

HIV感染孤児の家バーンロムサイを訪ねて


先月末はタイへ5日間の旅。今回の旅の目的はアユタヤ遺跡見学とタイ料理食い尽くし! そして、チェンマイ郊外にあるバーンロムサイの訪問。


バーンロムサイは両親をエイズで亡くし、自分たちもHIVに母子感染した孤児たちの生活施設。タイでエイズが爆発的に流行していた1990年代後半、デザイナーの仕事でタイに滞在しながら、HIV感染者と関わるボランティアをしていた代表の名取美和さんが、ジョルジオ アルマーニ ジャパンの支援を受けて1999年12月に開設した施設だ。チェンマイ郊外の自然豊かな敷地で、現在1歳から18歳までの30人の子どもが生活をしている。バーンロムサイのことは会田法行さんの写真絵本「プロイ」(ポプラ社刊)などの本にも書かれている。

 


施設の中を見学させてもらっている間、何人かの子とすれ違い、両手をあわせておじぎをするタイスタイルのあいさつを交わす。どの子も幼児をだっこしてあやしたり、料理を手伝ったりと元気そう。こんな風景は、私のいるバハイ・トゥルヤンの日常と同じ光景だ。だけど、これまでの歩みを聞くと、はにかんだ笑顔に対して、心から手をあわせたい気持ちになる。


バーンロムサイの正門近くにICUとよばれる小さな建物がある。薬がまだ発達していなかった時代、バーンロムサイにひきとられた子どもたちのなかにも幼くして、エイズを発症する子がいた。死期の近づいた子どもたちは、その建物に移され、保母さんやスタッフに看病されながら、息をひきとったのだという。


幸い薬を飲むようになった2002年以降はひとりの子どもも亡くなることなく過ごせているが、現在も建物はそのままのかたちで残されている。亡くなった10人の子どもたちの写真とプロフィールは、今バーンロムサイで生活している子どもたちと同じようにホームページにも掲載されている。短い命を一生懸命に生きた子どもたちのことをいつまでも覚えておきたいという、スタッフの皆さんの思いがうかがえる。


開設から7、8年の間は、地域からの差別にもあったという。看板を壊されるなどの嫌がらせもあった。子どもたちは地元の学校を退学させられ、車で遠くの学校に通うことになった。


転機となったのは、スイスの団体から支援を受けて図書館を建て、地域の子どもたちに開放したことだったという。子どもたちが遊びに来るようになり、親たちの態度もしだいに軟化していった。エイズや保健についての講座を開いて、地域に理解を深めてもらった。

いまでは、外から子どもたちが宿題をしにパソコンを借りにきたり、バーンロムサイの子たちと一緒にサッカーをしたり、バンド演奏するようになっている。大人もバーンロムサイと一緒にコンポストづくりに取り組んだりしている。


ちなみにバーンロムサイは、「ガジュマルの木の下」という意味だそう。庭に植えられているガジュマルの木は、子どもを包むこむお母さんのようにどっしりしているけど、もともとは小さな苗だったとか。その成長ぶりは子どもたちに勇気を与えてくれているようだ。


タイの法律では18歳になると施設を出なければならない。バーンロムサイの第一世代で母子感染の第一世代である子どもたちは、すでに外で部屋を借りて自立生活を始めているが、薬を受けとりにバーンロムサイにやってくる。

薬は12時間おきに飲まなければならない。月に3回忘れてしまうと、エイズを発症するリスクがあるという。飲み忘れていないか、ちゃんと薬をとりにくるか、ハラハラしながら待っていることもあるようだ。


病気の発症がおさえられるようになったことで、子どもたちの将来の可能性は拓けてきた。タイ舞踊を習ってプロをめざしたり、日本語を勉強し日本に留学することを考えたりと、好きなことを生かして自立したいと考えられるようになった。けれども社会がどのように彼らを迎えるのか、まだ不安が残っているという。


もしも、社会が差別によって、子どもたちの可能性を閉ざしてしまったら…。そのときに子どもたちが働き、生活の糧を得る場になればという思いから、バーンロムサイは職場づくりにも取り組んでいる。


そのひとつは、縫製場。ここではすでに、タイの少数民族カレン族の女性やHIVポジティブの女性たちが働き、洋服やかばんなどの布製品をつくっている。製品は日本でも鎌倉にあるバーンロムサイショップや、各地で開かれる企画展で購入することができる。


そして、私もお世話になったゲストハウスhoshihana villege。名前のとおり色とりどりの花が咲く敷地内は、映画「プール」のロケにも使われたというくらいの美しいロケーション。レストランでつくってくれるタイ料理も絶品。(タイにいる間、ずいぶんといろいろなものを食べたけど、ここで食べたおかゆとサラダが一番おいしかった!)マッサージやサウナを利用することもできて、リゾート気分を満喫できる場所だ。宿泊予約はウェブサイトで受け付けている。


現在タイでは医療が発達し、HIVに母子感染して生まれてくる子は急激に減ったという。
これは画期的な進歩にちがいない。

けれども新たなHIV感染者が減ってはいても、今バーンロムサイで生活している子どもたちは一生HIVとともに生きていかねばならない。子どもたちが自分で健康管理をしながら仕事を持ち、生計を立てられるようになるまではまだまだ時間がかかるだろう。HIV感染者であること、孤児であること、二重のハンディを乗り越えて芯の強い大人に成長するまでには、スタッフの皆さんの根気強い関わりが欠かせない。また薬代をどう確保しつづけていくかは大きな課題だ。


HIV感染孤児たちが生きることさえ困難だった時代に、こうした生活の場所を立ち上げた日本人女性がいたことを何だかうれしく思う。

そしてそのおかげで、日本から子どもたちを支え、つながることもできる。寄付、製品の購入、ゲストハウスにステイ、どんなかたちでもよいのだと思う。個人ができる支援を息長く続けていくことが大切なのだと思う。

バーンロムサイのサイトを開くと個性さまざまな30人の子どもたちを知ることができる。(プライバシー保護のため写真は掲載されていない子もいる)カメラマン、保母さん、みんなそれぞれの夢を持っている。幼いときから自分の生と向き合い続けてきた子どもたち。きっと彼らは、つながりを持った大人たちに、喜びや驚き、たくさんの実りを与えてくれるにちがいない。

「変化の種」は芽吹いたか?-フィリピンの住民運動と日本と(その2)

今日は、前回書いたSeed of Changeの内容について、簡単にご紹介したいと思います。

トレーニングでは、さまざまなアクティビティを通して、地域の課題を洗い出していきます。たとえば、下の図のように住民たちが地図を書いて、好きなところはどこか、嫌いなところはどこか? 住民にとって重要な場所はどこか? 印をつけていきます。

「重要な場所」については、子どもたちのグループは学校をあげ、大人たちは、仕事の場である湖や畑をあげていました。嫌いな場所については、働かない大人がふらふらしているところがあり、トラブルが起こりやすいのであまり近寄りたくないと言っていました。

次のステップでは、コミュニティのなかと外にある資源、スキルや自然資源、人財などをコミュニティごとに紙に書き出していきます。

たとえば、スキルとしては、キャンドルづくり、バッグづくり、木炭づくりなどの技術が、自然資源としては、ココナッツの林、ラグーナ湖などが、人財としては、医師、看護師、助産師、教師などが、あげられました。


こうしてみると、閉塞感ばかりが漂っているように見えたコミュニティにも、変化の種がたくさん埋まっているように思えます。


次にコミュニティのなかにある問題と外にある問題をピックアップしていきます。仕事がない。働かない親、早すぎる妊娠、栄養不足の子ども、ドラッグユーザー、売春、狭い土地での急激な人口増加、きちんと処理されていないごみ、電気、水道の未整備など、問題は山積しています。

こうした問題とコミュニティの内外の資源を見くらべ、地域を良くするために自分たちでどんなプロジェクトができるかを考えていくのです。


このトレーニングが始まる前、バハイ・トゥルヤンのスタッフと私は、地域の行政の中心であるバランガイのホールを訪問し、地域の状況についてヒアリングをしていました。でも、そこで聞くことができたのは、学校に行っていない子がひとり、ふたりいるといったことくらいで、地域にこれほどの問題があるとは聞かされていませんでした。小さなコミュニティですが、バランガイの職員がこうした問題をきちんと把握しているか、ちょっと疑わしいところです。

だからこそ、住民たちが考えて行動を起こしていくことが大切なのだと、Seed of Changeの意義をあらためて認識しました。


ごみの問題を解決するのは難しいよ、という声が出る一方で、ほかのコミュニティでは成功しているところを知っているから、それを真似ればできるんじゃないかという意見もあり。地域に助産師がいるのだから、家族計画についてレクチャーしてもらおうという意見もあり。

参加者の大半は主婦。コミュニティのなかで会ったときは、毎日、特にすることもなく、時間をもてあましているように見えたのですが、頼もしい意見をたくさん出しています。

少ない男性参加者のうちの一人は、自分は魚介類加工の技術があるといい、それをほかの住民に教えれば、ラグーナ湖の水産資源を利用して、ひとつのビジネスをつくれるのではないかと、提案していました。


アイデアはたくさんありますが、何しろ問題は山積みで、すべてを解決するには時間もお金もかかりすぎるので、優先事項をひとつ決め、具体的な計画を立てていきます。


あるコミュニティの大人たちは、子どもの栄養不足解消を解決するにはどうしたらいいかを考えました。

そして、子どもが栄養不足になるのは、親に仕事がなく、子だくさんだからだと、問題の背景を整理しました。それから助産師による母親クラスの開講、少しでも親たちの収入につながるような手工芸品づくりなどのプロジェクトを行うこと、そして空き地を利用して野菜を育てるといった対策を考え、そのためにバランガイのキャプテンへ交渉する、市役所、農業省への資金協力を依頼する計画を立てました。

また、12歳から18歳の子どもたちのチームは、ダンスの得意な子がリーダーになり、何もすることがない子どもや青年を集めてダンスチームをつくる計画を立てました。資金がかからず、現実的でコミュニティの結束を高めることもできるいいアイデアです。

このトレーニングの参加者のなかで、終始いちばん意欲的だったのは子どもたちでした。自分が生まれた環境を嘆くのではなく、少しでも良くするために努力することを彼らには何度も学びました。


いま、日本でも新しい大きなうねりが起きています。

うねりの外では、原発について抗議のスタイルについて、異なる意見もあります。そうした声も冷静に受けとめ、ときに軌道を修正していく必要があるでしょう。

けれども、これまでは何となくさほど悪くない未来があるだろうと思っていた日本人が、未来は自分たちで拓くものだと気づいたこと、そして自ら行動を起こすようになったことは、まずは大きな前進であるように私は思うのです。

【撮影:野田雅也(JVJA)】

「変化の種」は芽吹いたか?-フィリピンの住民運動と日本と(その1)


7月2日でフィリピンに渡航してから1年が経ちました。この1年は私自身にとっても大きな変化の1年でしたが、その間に日本も大きく変わったなあという思いで、ここ数日のニュースを聞きました。


ちょうど、先週、この1年間手伝っていた一つのプロジェクトが区切りしました。それを振り替えりたいと思います。
これは、以前にもブログで紹介した「Seed of Change」というプロジェクトです。.
近隣のいくつかのコミュニティの住民を対象にしたワークショップ型のトレーニングで、


・子どもの権利について学ぶ「子ども権利トレーニング」3日間、

・コミュニティの問題とビジョンを考える「コミュニティディベロップトレーニング」3日間

・具体的なプロジェクトを計画し具体化するための「プロジェクトディベロップトレーニング」2日間

の三部で構成されています。

 


このプロジェクトにかかわり、日本の市民活動とちがった難しさを痛感することが多くある一方で、学ぶべき点も多々ありました。


まずは参加者集め。日本であれば、興味のありそうな人にメールやSNSで呼びかけるだけですませてしまいそうなところですが、フィリピンではそうはいきません。パソコンを持っていない人が大半ですし、携帯のメールはありますが、それだけではまず何のためのワークショップで、どんなことをするのか理解してもらえません。


とはいえ、やみくもに1軒1軒回ることはできないので、はじめにコミュニティを束ねているバランガイのオフィスをたずねて、日本でいうところの民生委員のような役職についている人のリストをもらい、その人たちのもとを訪ねてトレーニングに誘います。


あっさりと携帯の番号と住所が書かれたリストをもらってしまっていいのかな…と思いますが、このあたりの大らかさというか、無防備さがフィリピンです。


コミュニティの家の多くはドアもない、非常に開放的な(?)つくりです。長屋状に連なっていて、お隣さんが本当に目と鼻の先。住民たちはたいした仕事もなく、ショッピングに行くお金もあるわけではないので、近所さんと噂話をしたり、トランプをしたり(たまにお金を賭けています)、風に当たって暑さをしのいだりして過ごしているようです。そのため、ふいに訪ねていっても、すぐに目当ての人に会えるのはいいところ。


突然の訪問でも、たいていの家はにこやかに迎えてくれました。けれども、実際にトレーニングを進めていくとなると、あるコミュニティでは、かなり苦労しました。最初は、片道8ペソの交通費が出せないからと乗り気ではなく、こちらで交通費を支給するという条件と、ランチとおやつを出すということを話し、ようやく参加を約束してもらえました。


この状況を見ると、シンポジウムやワークショップなどに自分から参加費を払って参加する日本人が、えらいように思えます。でも、ここまでしないとフィリピンでは、文化的にも経済的にも住民たちを動かすのは難しいのです。


それにしても、食べることへの執着は大人も子どもも強い! まだ全員に食事が行きわたっていないうちにお代わりに来る人、タッパを持ってきて、堂々とどっさりお持ちかえり…なんて人も。

 


ところが、ここまでしても、2回目以降、めっきりと参加者が減ってしまいました。最初は、食事も出してもらえるし、好奇心もあって参加したけど、「わざわざ行くのがなんか面倒くさくなった」というところでしょうか。ちょうど行政が無料で食事を配るフィーディングプロジェクトもあり、食べ物だけくれるほうを優先した人も多いようです。


プロジェクト責任者のリサ姉さんと一緒に、再度コミュニティを訪ね、都合のいい日を聞いて日程を再設定する。こんなことを4回も繰り返しました。


訪問のたびに、リサ姉はコミュニティに児童虐待が起きていないか、ストリートチルドレンがいないかなどを聞き、こんなプロジェクトができるんじゃないかと提案するのですが、「それは社会福祉省のやることだから」という返事が返ってくることもしばしばありました。


国が、行政が何とかするだろう。そんな空気は、これまでの日本とも似ているでしょうか?
でも、本来であれば、国がすべきことでも、それがあまり頼りにならないことは、日本もフィリピンも一緒。フィリピンの住民たちもよく知っています。


それから、バハイ・トゥルヤンにもフィーディングプログラムをしてほしい、インフラ整備のお金を出してほしいという人、パソコンを一台分けてくれないか、という人もいます。
私も名前も憶えていない人に日本のお土産をちょうだいといわれて困ったことも…。


以前は、バハイ・トゥルヤンでも、ストリートチルドレンを対象に食事を出していたこともありました。けれども寄付の減少によって、それは打ち切りとなりました。また、怖いのは、何かを与えることでそれに依存しきってしまうことです。実際、ある子どもの証言によると、その地域では、現在のフィーディングプログラムをあてにして、収入の大半をギャンブルに使ってしまう親がいるとのこと。


Seed of Changeがめざしているのは、あくまで持続可能な住民主体のプロジェクトを立ち上げること。そこをリサ姉は根気強く何度も話していました。


こんなこともありながら、リサ姉の前向きな、ときには半ば押しきりな姿勢で、すべてのトレーニングを修了しました。

 


日本人の私から見れば、ちょっと面倒を見過ぎだと思うところもあります。けれども、こうしてていねいにサポートしていくことで、もともと社会的意識の高い人ばかりではなく、いろいろな人を引き込み、住民運動の裾野が広がる可能性もあります。


いとこについてやってきたキムは、まだたったの12歳ですが、すべてのトレーニングに欠かさず参加し、グループ活動でもお姉さん、おばさんたちに負けず自分の意見を出しています。


個性が強くて、おしゃべりなネリーさんには、最初はどう接していいのか戸惑いましたが、コミュニティの現状をよく見ていて、グループ活動では、ちゃんと周りと協力し、いい発表をしてくれます。


もしかしたら、もう小さな芽が頭を出しているかもしれません。
次回は、住民たちが立てたプロジェクトの具体的な内容について少しご紹介したいと思います。

プロフィール

野口和恵

フリー編集者・ライター。児童書編集にたずさわるかたわら、国内外の子どもを取り巻く問題について取材。

著書に「日本とフィリピンを生きる子どもたちージャパニーズ・フィリピノ・チルドレン」(あけび書房)がある。


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