Archive for the ‘日本とフィリピンの間に’ Category

フィリピンのサッカーリーグと
日系クラブ「JPV Marikina FC」



3月24日発売の「アジアフットボール批評 issue04」に寄稿させていただきました。
(カンゼン社の皆さま、ありがとうございました!)


昨年9月に取材させていただいた、フィリピンのプロサッカーリーグと、日本人がオーナーをつとめるクラブ「JP Voltes」についての記事です。


フィリピンはサッカーよりもバスケットボールが盛んな国ですが、2009年からセミプロリーグが始まり、2010年には代表チーム「アスカルズ」がアジアの大会で活躍したことをきっかけに、少しずつサッカー熱が高まっています。

JP Voltes対Loyola Meralco Sparks。緑のユニフォームがJP Voltes。Loyolaのスポンサーはフィリピンの大手電力会社。ヨーロッパ育ちのフィリピン人選手を多数獲得している。


という私も正直、一年前まではフィリピンにサッカーリーグがあったことを知りませんでした。取材のきっかけは、日本でおこなわれたフィリピン関連イベントで、選手のお父さんにお会いしたことでした。JP Voltesの高野大志選手のお父さんの高野信さんは、かつてJICAの野球の指導員としてフィリピンに滞在された経験がある、フィリピン通のスポーツマンです。信さんにお会いし、フィリピンのスポーツ事情をはじめ、さまざまなことを教えていただきました。


今回の記事には書ききれませんでしたが、大志選手とチームメイトの高橋アレン選手からはフィリピン人選手との寮生活の話など、興味深い話もたくさんうかがいました。

高野大志選手と。フィリピン人の選手からは「お母さん?」と聞かれ、自分の年を感じる(!)

高野大志選手と高橋アレン選手。フィリピン人のお母さんを持つ二人。フィリピン代表入りもめざす。


またオーナーの永見協さんには取材に際し、多大なお気遣いをいただきました。実際のところ、フィリピンのサッカーリーグは、興業的にはまだまだ成り立っているとはいえず、オーナーの持ち出しでクラブ運営を続けている状況があります。そのなかでも、多くのフィリピンの若者にプロになる道を開き、貧困層の子どもたちの支援、育成にも熱心な永見さんのお人柄に感銘を受けました。


じつは、フィリピンのサッカー界は過渡期を迎えています。
これまで、フットボールアライアンスという資産家による有志の団体によって支えられていたUFL(ユナイテッドフットボールリーグ)は、この春からフィリピンサッカー連盟に引き継がれ、新しくPFL(フィリピン・フットボール・リーグ)という名称でスタートします。それにあわせて、各チームもホームタウンを持ち、地域を密着したチーム運営をめざしていくそうです。


「JP Voltes」は、マニラ首都圏のマリキナ市をホームタウンとし、それに伴い「JPV Marikina FC」にチーム名を変更して、新シーズンに挑むそうです。


フィリピンに先んじて、ほかのアジアの国では、サッカーは国民的なスポーツになっています。レベルも向上していて、アジアに渡ってプレーする日本人選手も増えているようです。


アジアのサッカー情報が満載の「アジアフットボール批評」は、サッカー好きにも、アジア好きにもうれしい一冊だと思います。ぜひ興味のある方はお手にとっていただければと思います。

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在日フィリピン人のためのWEBサイトをつくりたい!
あるジャパニーズ・フィリピノ・チルドレンの挑戦


日本にいるフィリピン人コミュニティのためのWEBサイトhttp://juaninjapan.com/contribute/をつくる。
マニラで日本とフィリピンの血をひく男性“ノリ”が準備をすすめている。


ノリはマニラでウェブサイト運営や商業デザインを中心とする会社を経営している。社員は数名だが、20代という若さで成功をおさめた実業家なのだ。


ノリはジャパニーズ・フィリピノ・チルドレンだ。
ノリの母親はマニラの貧困層の出身であり、若いときに日本に出稼ぎに渡った。そこで知り合った日本人男性との間にもうけた子どもがノリだった。


母がフィリピンで一時帰国した際にノリは生まれた。以来、ノリは祖母に育てられた。母は日本へ戻って働き送金をつづけていたが、日本人の父親については語られることはなく、消息もわからなかった。「父親のことを知りたい」そんな思いを抱えたまま、大人になった。


ノリのように日本人の父親から養育放棄されたジャパニーズ・フィリピノ・チルドレン(以下JFC)は、在比ケース、在日ケースあわせて10万とも20万ともいわれている。日本がバブルに湧き、あちこちにフィリピンパブが林立していた1980年代以降、日本に出稼ぎにきたフィリピン人女性と日本人の男性の間に生まれる子が増えたことが背景にある。フィリピン国内にも日本人男性を相手とした歓楽街が広がり、そこでも男女の出会いがあった。結婚し幸せな家庭を築いたケースもあるが、父親のことを一切知らないまま大人になったJFCが、日本から見えないところで生きているのも事実である。


こうしたJFCを支援する団体が、フィリピン国内にいくつかある。大人になったノリはこれらの団体をたずね、同じような思いを経験してきた青年たちと交流を重ねてきた。ノリはときどき自宅をかねたオフィスにJFCの友人をよび、自分たちの課題について話しあい、きずなを深めるためのパーティを開いている。


ノリ自身も会社を立ち上げるまで、生活面でも精神面でも大変な苦労があった。しかし、ノリは交流をとおして、JFCのなかにはもっと過酷な人生をたどってきた者がいることを知った。小学校さえも卒業できなかった者もいたし、フィリピン人の実母にも捨てられ、路上で生きてきたという者もいた。


そんなJFCたちも機会に恵まれれば、力を発揮し、よい仕事につけるのではないかとノリは感じた。そこでノリは自分の会社のなかで同胞の職業訓練と雇用の機会をつくった。しかし始めてみると、ノリは彼らとの接し方に悩んだ。成長の過程でさまざまな機会が欠落してきた彼らには、仕事の前に簡単な規則を守ってもらうことも難しかった。それを理解する専門性のある人間でなければ、彼らの教育はむずかしいと気づいた。会社の仕事も立ち行かなくなるおそれがあったため、ノリは彼らと長く話し合った末、別の簡単な仕事につくことをすすめた。


ノリは今でも彼らのポテンシャルを信じている。ただそれを生かすには適切な訓練と指導を受けて、規律を持つことが必要なのだと語った。


今年7月、ノリは日本に行くチャンスを得た。日本の支援団体らから、スピーカーとして招待を受けたのだ。これは「移住者と連帯するネットワーク」がトヨタ財団の助成を受けておこなった「安全な移動と定住」プロジェクトの一環だった。
現在、日本は技能実習制度をはじめ、さまざまな形で外国人労働者を呼びこみ、介護や製造業での人手不足解消、コスト削減をはかろうとしている。
日本人の父親から生まれたJFCは、父親からの認知があれば在留資格をとりやすく、なかには日本国籍を取得しているものもいる。外国人労働者を日本の企業に仲介するエージェントはこれに着目し、フィリピンで積極的なリクルート活動をおこなっている現状がある。「日本に行ってお父さんに会いたい」といったJFCの気持ちを利用し、「日本で働けば父親さがしを手伝ってあげる」とだまして劣悪な労働環境に送りこむエージェントも存在する。
こうした現状を調査し日比でアドボカシー活動をおこなうことによって、被害の拡大を防ぐのがこのプロジェクトの目的だ。
 



ノリはまだ見ぬ父親の国を訪れ、自分の生い立ちを赤裸々に語った。会場には聞きながら涙を流す人の姿がめだった。
この旅を通して、ノリは実際に日本で搾取されてきたフィリピン人女性たちに会い、労働の現場を見学した。また、日本の貧困問題に取り組む人々にも会い、日本の社会のなかにも格差が広がっていることを知った。


フィリピン人女性やJFCが日本の社会の現状や法律を知らないために、安価な労働力として利用され、疲弊している。そう感じたノリは、フィリピン人が自分たちの権利についてさまざまな情報を得られるリソースが必要だと感じた。
冒頭に紹介したウェブサイトは、彼がこの経験から企画したものだ。


現在は試作ページのみだが、今後、日本語と英語での情報発信をしていきたいと考えている。現在、このウェブサイトの制作に協力してくれるライターや翻訳者を募集中だ。また運営資金を出してくれる広告主もさがしている。


興味のある方は、ぜひhello@juaninjapan.comからお問い合わせください。

Where are you from?


約1年ぶりにフィリピンに滞在中です。
定宿のドミトリーについて、まずバハイ・トゥルヤンに向かいながら、マラテ周辺を散策。 


スペイン、アメリカの統治下にあって、華僑も多いフィリピンでは、人の顔だちもさまざまです。
なので、私も現地に溶け込んだ服装をして、タガログ語を話していると、フィリピン人だと思われることがよくあります。もしくは、「コリアーノ?」、次に「チャイニーズ?」とよく聞かれます。ほかにも「ベトナム人?」「タイ人?」と聞かれたことも。(なぜか最初から『日本人』と充てられることはほとんどありません)でも、聞くほうにとっては会話のきっかけにすぎなくて、最終的に日本人と判明したからどうなるということでもありません。ふざけて、韓国人やフィリピン人のふりをすると、それはそれで通るので「国籍ってなんだろう?」と思います。


日本人の父親、フィリピン人の母親の間に生まれたジャパニーズ・フィリピノ・チルドレンで、日本の英会話スクールで働く男性は「先生は何人なのですか?」と聞かれるのがたまらなく嫌だといいます。結婚した両親のもとに生まれた彼は法律上、生まれたときは日本国籍を持っている日本人でした。けれども、フィリピン生まれの彼は、諸般の事情で、生後3か月以内に求められている届け出を両親が行えなかったことから、日本国籍を喪失してしまいました。詳細は拙著「日本とフィリピンを生きる子どもたち」に書かせていただきました。
自分の責任ではないところで、なかったことにされてしまった日本国籍。彼は生徒から質問されるたびにそれを思い知らされています。


「国籍っていうものがきらい。みんな同じ人間でしょ」。ある席で涙ながらそう話した女の子もジャパニーズ・フィリピノ・チルドレンでした。フィリピンにルーツがあるということを理由に、初対面の人からも嫌な言葉を浴びせられた経験もあったといいます。


またあるジャパニーズ・フィリピノ・チルドレンはこう語ります。「日本とフィリピン、どちらのアイデンティティも大切にしたいけれど、二つの国に同時に住むことはできません。二つの国の間に生まれた僕たちは、いつも選択を迫られています。それがとっても苦しいんです」


現在、日本に暮らす人々の100人に1人が外国籍で、生まれてくる子どもの30人に1人は、両親のどちらか、あるいは両親とも外国人です。さらに法務省によると平成18年の時点で、100人に1人の子どもが生まれたときに重国籍だといいます。急速に多民族化が進む現在、口にはできなくても彼らのような思いを抱えている人が大勢いるはずです。

「日本とフィリピンを生きる子どもたち‐ジャパニーズ・フィリピノ・チルドレン」出版のお知らせ



この度、「日本とフィリピンを生きる子どもたち‐ジャパニーズ・フィリピノ・チルドレン」を上梓いたしました。

日本人の父親とフィリピン人の母親の間に生まれたジャパニーズ・フィリピノ・チルドレンのなかには、日本人の父親との関係が途絶え、母親とフィリピンに取り残されてしまった子どもが大勢います。または日本の中でも婚外子として生まれ、あるいは両親が離婚したために、フィリピン人の母親以外に身寄りなく暮らす子どもが少なくありません。その数は、10万人とも20万人ともいわれています。

ジャパニーズ・フィリピノ・チルドレンの第一世代と同じ時代を生きてきた私は子どものころ、偶然テレビでジャパニーズ・フィリピノ・チルドレンのことを知りました。父親から存在を否定された子どもたちのことを知り、「もし自分だったら」とただ悲しく、恐ろしかったことを覚えています。

それから約20年後、私がフィリピンで出会ったジャパニーズ・フィリピノ・チルドレンはすでに成人しており、自分の言葉で思いを語ってくれました。
無責任な父親のことを赦そうとし、再会を願い、貧困のなかで懸命に生きる姿。
それはすでに「父親に捨てられたかわいそうな子」ではなく、しっかりと自分の足で人生を歩きはじめた青年であり、私自身も持つ「日本人の驕り」に気づかせてくれる存在でした。

けれども、ジャパニーズ・フィリピノ・チルドレンは、今も「日本」に翻弄されています。「父親に会いたい」という思いを利用し人身取引の餌食にするブローカー、差別、いじめ・・・。

それでも、たくましく生きようとするジャパニーズ・フィリピノ・チルドレンがいます。そんな彼らの声をぜひ多くの人に届けたい。そんな思いからこの3年間、フィリピンと日本で取材を続けてきた次第です。

現在ネット書店や、全国の書店で取り扱い中です。
Amazon購入ページ https://goo.gl/TAidUa

どうか本書を通して、彼ら彼女らのことを知っていただきたく、心よりお願いいたします。

野口和恵

「ジャパニーズ・フィリピノ・チルドレンとして生きる子どもたち」掲載誌のご案内


月間「ヒューマンライツ」5月号に寄稿させていただきました。
「ジャパニーズ・フィリピノ・チルドレンとして生きる子どもたち」をテーマに3回連載の予定です。


2012年から取材してきたこのテーマ、ようやくメディアでの発表の機会をいただくことができました。写真は、3年前に取材に協力してくれたK君とお母さん。唐突な取材の申し出を快く受け入れ、自宅に案内してくれました。近所で肉のおかずを買ってきて私に差し出し、自分たちはごはんだけを分け合って食べていたことが忘れられません。


先日、4月28日から10日間、フィリピンに滞在し、K君をはじめとするジャパニーズ・フィリピノ・チルドレン(JFC)に再会しました。K君の写真が掲載されたことを報告すると、「記念になった」と喜んでくれました。


思春期にさしかかった今、友人関係の悩みも出てきたり、将来について現実的に考えをするようになったり、大人への旅の途中にあります。


楽しい話ばかりではありませんでしたが、一生懸命、こちらからの問いかけに答えてくれました。うれしかったのは、K君のほうからも質問をしてくれたこと。
「僕たち、JFCの話を聞いてどう思いましたか?」


拙くてもタガログ語で答えたかったので、ごく簡単に手短に答えました。
「フィリピンに来るまでは、JFCのことをあまり知らなかったよ。テレビで日本人のお父さんに捨てられた子がいることは聞いていて、悲しいなと思ったけど、フィリピンに来てみて、みんなと会って、本当に悲しくなった。でも、お父さんに対して「恨んでいない」「抱きしめたい」とっていうJFCが多くて、すごいと思った。そんなふうに言えるみんなのことを本当に尊敬している」。


ブロークンなタガログ語でしたが、頷きながら聞いてくれました。


掲載誌を購読いただける方がいらっしゃいましたら、解放出版社 06-6581-8542 までお問い合わせください。
書店での取り寄せ購入も可能とのことです。
拙い記事ではありますが、K君のようなJFCのことをぜひ多くの人に知ってほしいと思います。

「ジャパニーズ・フィリピノとして生きる私の人生」エッセイコンテストより


私のフィリピン滞在中よりお世話になっているJFCネットワークが、今年、設立から20周年を迎えます。


JFCは「ジャパニーズ・フィリピノ・チルドレン」の略称です。日本人とフィリピン人の親を持つ子どもを総称しますが、日本人の父親でフィリピン人の母親を持つJFCが大半となっています。


1980年代から、多くのフィリピン人女性が興業ビザを取得し、日本に働きに来きました。また、観光や仕事でフィリピンを訪ねる日本人男性も増え、日比のカップルが成立するようになったのです。そのまま、幸せな家庭を築いたカップルもいる一方で、子どもの妊娠、出産後、日本人の父との連絡が途絶え、母子だけが取り残されてしまったケースが少なくありません。


JFCネットワークは、1994年に設立され、以来20年間、父親に養育放棄されたJFCたちの人権を守るための活動、父親さがしをおこなっています。


日本人の父親に養育放棄されたJFCについて、1990年代には、テレビなどのメディアに取り上げられることもありました。その多くは、どちらかといえば、母であるフィリピン人女性と父である日本人男性の関係がクローズアップされたものでした。そうした報道を見て、弱い立場に置かれたフィリピン人の母親や父親不在で育つJFCの存在に心を痛める人もいる半面、あくまで男女間のプライベートな問題として、とらえられることも多かったようです。


それでも、JFCたちは親を選ばずに生まれ、生きてきました。


JFCネットワーク設立当時、生まれたばかりだった子どもは、二十歳の成人を迎えています。(ちなみにフィリピンでは、18歳から成人です)


もともとJFCネットワークに相談を持ちかけるのは母親で、内容は養育費に関する相談が中心でしたが、ここ数年は、JFC自身からの相談が増えています。フィリピンにいるJFCからの相談もあれば、日本で生まれ育った、またはフィリピンから日本にきたJFCからの相談もあります。置かれている状況はさまざまですが、相談内容はみな「父親をさがしてほしい」「父親に会いたい」というものです。


そこでJFCネットワークは、今年、設立20周年を記念して、「JFCとして生きる私の人生」と題したエッセイコンテストを行いました。


フィリピンの学校では、日本の学校のようにひんぱんに作文を書く機会がなく、どれほどの作品が集まるか未知数であったため、事前にマニラ、ダバオ、東京の3都市で、JFCネットワークと関わりのあるJFCに呼びかけ、エッセイを書くためのワークショップを行いました。私もマニラと東京でワークショップの一部を担当させていただき、新たに多くのJFCと出会いました。


家族、日本という国。大半の日本人は、生まれたときから当たり前のように、その一員として育つのではないでしょうか。家族も国も、子どものアイデンティティを形成する上で不可欠なものです。国連で採択され世界194か国が締約国となっている「子どもの権利条約」に家族、国に関する条項が盛り込まれているのも、そのためです。


にもかかわらず、父親を知らないJFCたちは、「自分はどこから来たのか?」「自分はフィリピン人なのか?日本人なのか?」という問いを抱えてきました。また、父親との関係が切れたことから、母親が精神のバランスを崩してしまった、母親が家計を支えるためにフィリピンから海外に出稼ぎに出ていった、という経験を涙ながらに話すJFCもいました。


けれども同時に、集まったJFCのほとんどが、父親のことを恨んではいない、会いたいと話しました。また、フィリピンのJFCたちは、自分も勤勉な日本人の血をひいているという意識からか、学業や仕事でよい成績を残している人が多くいます。「お父さんに会ったときに、自分のことを誇りに思ってほしいからがんばる」と話す子もいました。


エッセイコンテストには、5月末の〆切までに、計31通の応募がありました。応募作品の一部をいくつか引用させていただきます。


「私たちの家族に何があっても、家族は家族。これはフィリピン人として学んだことです。私が願っているのは、将来、家族そろって生活すること、そして幸せになること、それがすべてなのです」(24歳 女性 フィリピン在住)


「大学を卒業したあと、観光産業で仕事をするのを楽しみにしていましたが、『日のいずる国 日本』を見てみたいという自分がいることに気づきました。パパに会いたいという気持ちもありました。私は彼に会い、抱きしめたかったのです。初めて、日本に着陸したとき、そこにいた人々は、細い目をしていて、まるで私みたいだと思いました。」
(22歳 男性 日本在住)


「何かが足りないからといって、すぐれた人物にはなれないということはありません。私のようなジャパニーズ・フィリピノは、ただ乗り越えようとする意思と、そして母親からの適切な支え、仲間からの励ましが必要なのです。私たちを追いつめるような人々には、耳をふさぐことです。そして、幸福と満足を力に変えること、それが、成功につながる公式です。」(21歳 女性 フィリピン在住)


「日本もフィリピンも、父親も母親も、そして僕の生きてきたこれまでの時間も「僕」という存在からは断ち切ることができません。しかし、それらはあくまでも自分を構成する一部分でしかないのです。時として、それらから制約を受け、順調にいかないこともあるでしょう。それでも僕たちは、自分の可能性を信じて生きていくことができると信じています」 (21歳 男性 日本在住)


同じJFCでも、これまでたどってきた道のりは人それぞれですし、そのだれもがエッセイを書いたJFCのように自分の言葉や強い意思を持っているわけではありません。自分の置かれた状況に苦しみ、どう歩き出したらいいのか迷っている人もいます。それが、むしろ、ごく自然なのかもしれません。


けれども、今回、生まれながらに負った苦難を飲みこみ、たくましく生き抜こうとするJFCたちに出会えたことをとても心強く思います。彼らがこれから成長していくJFCたちの希望になるのではないか、という期待を抱きました。


そして既存の家族、国という枠の外で、生きざるを得なかった彼らの洞察からは、本当の家族とはなにか、国とはなにか、立ち止まって考えるヒントがあるように私は感じるのです。


エッセイコンテスト入賞者、入賞作品の全文は、2014年10月13日に東京、新宿区NPO協同推進センターで開かれるJFCネットワーク設立20周年イベントで発表します。こちらのイベントでは、JFCの若者を追ったドキュメンタリービデオ上映のほか、日本在住のJFCたちによるパネルディスカッションも行います。ランチタイムには、本場のフィリピン料理もふるまわれます。


参加申し込みは、下記モーションギャラリーのサイトで

https://motion-gallery.net/projects/jfc_network

チケットをご購入いただくか、もしくはJFCネットワーク事務局までメールjfcnet@jca.apc.orgでご連絡ください。多くの方のご来場をお待ちしています。

被災地に生きるフィリピン人コミュニティの底力2


パワフルなフィリピン人女性たちは、ほかの被災地にもいる。


6月17、18 日に仙台で開かれた、移住労働者と連合するネットワークの全国ワークショップでは、「東日本大震災の外国人被災者」というテーマでの報告があり、そのなかで南三陸町に暮らすフィリピン人女性、佐々木アメリアさんからの報告があった。


アメリアさんは日本に暮らして33年になるという。震災前、南三陸町でアメリアさんは、英語教室を開いていたが、津波によって教室を流された。南三陸町には震災前、アメリアさんをふくめて15人のフィリピン人が暮らしていた。そのうち一人が亡くなり、ほかの方も財産やパスポートを流された。アメリアさんは、自分も避難所で生活しながら、同国出身の女性たちの相談にのった。ぼろぼろになった町を見て、町に助けを求めるのではなく自分が町に何かをしなければと思ったという。


震災から数か月経ったあと、アメリアさんは、震災で仕事を失った仲間たちを助けようと、「サンパギータ・F・L多文化協会」という団体を立ち上げ、ホームヘルパー2級の資格取得のための勉強会や、パソコン教室、日本語教室を始めた。


報告会では、震災から3年と3か月経った気持ちを、アメリアさんは日本語で次のように語った。


「今もまだ町民の心は回復していません。辛さを飲みこんでがんばっています。第二のふるさとでボランティアをはじめました。ゼロではなくゼロの下から始まったのです。新しく食堂も始めました。人口の半分以上が出てしまっていますから、商売にはなりません。
でも、ぼーっとしているよりはいいんです。ぼーっとしていると考えてしまうから。
1、2年は言葉がつまる状態でした。仮設住宅をまわって、老人の気持ちを楽にしました。国籍関係なくスムーズに暮らしたいです。震災はいいことと悪いことを教えてくれました。人間はひとりでは暮らせない。命は大切です。」


自然災害の前には、日本人も外国人もまったく関係なく、手をとりあわねば、どちらも生きてはいけないのだという、当たり前のことをアメリアさんの言葉から強く感じる。


東北大学研究員の李善姫氏によると、1990年ごろから東北地方では、日本人との結婚を機に外国から移住する女性が増えたという。過疎化に悩む自治体もこうした結婚を奨励してきた背景がある。しかし、右も左もわからない土地にやってきた移住女性たちをフォローする体制は不十分であった。そうした中で、女性たちは夫やその家族のやり方に即座に適応することが求められた。移住女性同士が集まり、悩みを語り合うような機会はほとんどなく、教会で顔をあわせることはあっても、それ以上のつきあいはなかったという。


しかし、震災後、移住女性たちは、安否確認などを通して、同国出身者との連帯が深まり、ともに地域でボランティアを行うようになっていった。以前に紹介したハワク・カマイ・フクシマやサンパギータ・F・L多文化協会のほかにも、現在、被災地では、多くの移住者外国人コミュニティが活躍している。


それを牽引しているのは、アメリアさんのように日本在住期間が長く、日本語や英語に長けている女性たちだ。李善姫氏は、そうしたリーダーたちの活躍を評価する一方、地域の表舞台に立つ移住外国人のイメージが定着することで、そのほかの移住外国人が抱えている困難が見えにくくなるおそれがあると指摘する。


すでに日本経済を支えている移住外国人だが、非正規雇用であったり、劣悪な労働環境で働かされていたりすることが多い。ふだんから日本人よりも脆弱な立場に置かれているのだ。また、女性の場合は、DV被害者になるケースもめずらしくない。貧困状態や孤立に陥るリスクが高いのが現実である。どこに相談したらいいのかわからず、ひたすら耐えるしかないという人も多いだろう。


しかし、そうした人々も、もともと異国の日本で生きることを決意し、海を渡ってきた人たちだ。日々の生活が大変であっても「チャンスがあれば、もっと日本語を勉強したい」と話す人に出会うことがよくある。彼らとの交流のなかから、日本人が得られることは、まだまだあるはずだ。


安倍政権は移民受け入れ拡大を進めている。しかし、現在も日本には、多くの移住外国人がいること、そして、人権が保障されていない状況を、まず直視すべきではないだろうか。


ある移住女性はこう言った。
「この国の住民として認めてもらえたら、きっと私はもっと日本を大切にするようになります」。

被災地に生きるフィリピン人コミュニティの底力1



前回のブログに書いた、相馬市訪問の翌日、福島市の街なかひろばを訪ねた。福島で暮らすフィリピン人女性たちの自助グループ「HAWAK KAMAY FUKUSHIMA(ハワク・カマイ・フクシマ)」の、イベントがあったためだ。


法務省の統計では、2011年3月時点で、福島に暮らしていた外国人は1万758人。また、福島県国際交流協会の調査によると、原発から30㎞圏内に在住していた外国人が3170人いた。そのうちの7割が女性だ。


実際に彼女たちがどのような体験をしていたのか、その証言が「外国出身住民にとっての東日本大震災・原発事故 FIAの記録」にまとめられている。
http://www.worldvillage.org/jishin/report_pdf/houkoku_all.pdf


それによると、調査対象となった100人のうち、半数以上が日本に10年以上滞在していた人で、ふだん日本語を使って生活している人が大半だったが、平常時に使われることの少ない災害用語は、あまり浸透していなかったことがわかる。たとえば、「避難」という言葉を知っていた人は6割程度。また、「原発事故」、「放射線」という日本語を知っていた人は、4割程度にとどまった。


彼女たちの多くは、日本人の家族や近隣の人を介して、避難情報を得た。また、スマホやパソコンを使える環境にあった人にとっては、母国のメディアも一つの情報源であった。しかし、海外のメディアで流れる映像は生々しく、原発事故の影響についても、日本のメディアよりずっと深刻なものとして伝えていた。「何が正しいのか? 日本政府は本当のことを隠しているのではないか」。ごく普通の日本人でさえ、猜疑心を抱いていたときだ。そんな情報を聞いて、なおさら不安になったにちがいない。


海外の国々は、被災した自国民に相次いで退避勧告を出した。母国の親族たちも帰国を強くすすめた。津波や原発事故のために、帰る家を失った人は、自分がほかの家族の足手まといになるのではないかとも考えた。調査対象者のうち4割の人が母国に一時帰国した。


しかし、経済的事情もあっただろうが、こんなときだからこそ日本の家族や地域の人と助け合うべきだと、あえて日本に残ることを決断した人のほうが多かった。また、帰国した人も大半が、日本にいる家族のことや子どもの教育のことを考え、短期間で福島に帰ってきた。母国の親族から「日本に帰ったら死ぬよ」と、泣きながら反対されたのを押し切って帰ってきた人もいる。母国で寄付を集めてきたという人もいる。


出身国や国籍はちがっても、彼女たちは震災後の日本を、福島を生きていく場所として選んだ。そして、未曾有の災害、事故に翻弄されながらも、しだいに避難所でのボランティアなど、支援者としても行動を起こすようになっていった。


ハワク・カマイ・フクシマは、震災から約1か月後の4月17日、タガログ語での情報提供、被災者支援を目的として、結成された。「ハワク・カマイ」はタガログ語で「手をつなごう」という意味だ。


メンバーの中心は、30代から40代の女性。仕事と子育てに忙しい世代だが、その合間を縫っては、避難所、仮設住宅を訪問し、フィリピン料理を振る舞ったり歌や踊りを披露したりして、ほかの被災者たちを励ましてきた。


ハワク・カマイ・フクシマを立ち上げた女性は、こう話す。「震災の前まで、外国人と日本人は、どこか差があるように感じていました。でも、震災のあとは、みんなひとつ。同じになったような気がします。私の人生のなかでは、もうフィリピンよりも福島での生活のほうが長いんです。第二の故郷です」。


私が訪ねた5月18日は、「MOVE FORWARD ハワク・カマイ」という復興イベントを行った。ハワク・カマイ・フクシマの呼びかけで、福島市周辺のいくつかの国際交流団体がブースを出し、各国の料理を販売した。特設ステージでは、歌と踊りのパフォーマンスや、豪華景品があたる、だるまさんころんだ大会も行われた。


朝の会場設営のときに、ハワク・カマイ・フクシマのメンバーが、テントの配色にも気を配って配置するのを見て、別団体で出店していた男性は「フィリピンの女の子は、真面目で仕事が細かいね」と感心していた。


ハワク・カマイ・フクシマのブースでは、ルンピャンシャンハイ(フィリピン風春巻き)、ルーガウ(フィリピン風おかゆ)などを販売。売り上げは、今後、仮設住宅や福祉設訪問の際の資金にするという。 



「ちょっとこれ、春巻きを揚げるには、鍋が小さすぎるんじゃないの?」「ほら、まだ温度が低いのよ」。メンバーの母親くらいの年齢の日本人女性がブースに来て、世話を焼いた。彼女たちと同じ職場で働いている方だという。娘のようなメンバーたちを、ちょっと心配気に見守りつつ、「誰に対しても親切で気持ちのいい子たち」と話す。


メンバーの一人は、こう語る。
「いつ自分の家に帰れるのかもわからなくて、悲しい思いをしている人、仮設住宅で暮らして、ストレスを抱えているお年寄りのことがとても気にかかります。私たちの活動はボランティアです。でも喜んでもらえると、とても気持ちがよくて、多くのものをもらっているような気がします」


祖国をはなれ、慣れない土地で暮らしてきた外国人女性だからこそ、むしろ日本人よりも、わかること、できる活動があるのかもしれない。


I love you & I need you ふくしま byハワク・カマイ・フクシマ

日本人の血は私の誇りー日比国際児の闘い



フィリピン・ケソン市にあるNGO、JFCネットワークのフィリピン事務所には、日本人と変わらない容貌を持った子どもたちがやってくる。彼らは、フィリピン人の母と日本人の父の間に生まれた日比国際児だ。1980年代から、日本とフィリピンの間を大勢の男女が仕事や観光のために行き来するようになったことから、多くの日比のカップル、日比国際児が誕生している。両親のもとで幸せに暮らしている日比国際児もいる一方で、父からの音信が途絶え、事実上、養育放棄された子も少なくない。東京とフィリピンに事務所を置くJFCネットワークは、こうした子どもたちの父親探し、法的支援を行っている。


日比国際児たちは、離れていった父親に対しても、強い愛着を持っている。家族とのつながりを重んじ、異文化に対して寛容なフィリピンでは、外国人の親を持つ子どもは、フィリピン国籍と同時に、もう一つの国籍を持って生きるのが自然なことだ。「フィリピンと日本、二つの国籍があってはじめて、自分が完成するような気がする」「母親の国フィリピンと同様に、父親の国日本の国籍がほしい」と日比国際児はいう。しかし、そんな思いに反し、日本はこれまで、ある法律に基づき、この子どもたちから日本国籍を奪ってきた。


その法律とは、両親が結婚しており、フィリピンで生まれた日比国際児に適用される国籍法12条だ。この法律では、フィリピンで生まれた、日本人の親を持つ子は、出生した時点ではフィリピン国籍と同時に、日本国籍を持っていることを認めている。ただし、これには厳しい制限があり、出生から3か月以内に、日本大使館ないし日本の市町村役場に親が届出をしなければ、子どもは日本国籍を失うとされているのだ。大使館が認める特別な事情がない限り、3か月を1日でも過ぎてしまうと、後から届出をしても、失った国籍は回復せず、また日本の戸籍にも記載されないという極めて厳格なものだ。


フィリピン人の母親が、こうした日本の法律にまで気を配り、内容を理解することは難しく、また、届出には日本語の書類も必要になるため、手続きは日本人の父親まかせにならざるを得ない。しかし、概してJFCネットワークに相談にくるような子どもたちの父親は、親としての自覚が乏しいのが現実だ。その父親によって届出がされなかったという理由から、多くの子どもが自分の意に反して日本国籍を失っているのだ。また、父親が子どものことをしっかりと考えていても、国籍法12条を知らなかったため、子どもが国籍を喪失したというケースも多発している。これについては、日本大使館の指導不足を問う声もある。


JFCネットワークが1993年以降受け入れてきたフィリピン生まれの婚内子は341人。そのうち、じつに7割の230人の子どもが、3か月以内に届出が出されていなかったため、国籍を失っている。この子どもたちが再び日本国籍を取得するには、20歳未満のうちに日本に一定期間以上居住し、届出をしなければならない。しかし、父親との関係が途切れた日比国際児にとっては、そもそも保証人を見つけて日本に入国すること自体が困難なのだ。日本に行けたとしても手続きは複雑で、国籍を取得するまでには約1年の時間を要する。その間の生活費をどう工面するかも問題だ。また、後にふれるが、日本側の理解不足によるトラブルも起きている。
 


ちなみに、結婚していない両親のもとに生まれた子どもは、日本の父親から認知を受けることさえできれば、日本大使館へ届出をするだけで、日本国籍を取得することができる。これは平成20年に改正された国籍法三条一項で認められているものだ。また、日比国際児が日本で生まれた場合は日本国籍を取得するが、フィリピン大使館に届出することで、同時にフィリピン国籍も取得することができる。これには届出の期限がない。
 


長年にわたって日比国際児の国籍取得を手伝ってきたJFCネットワークの顧問弁護士らは2009年、フィリピンで、国籍法12条によって国籍を失った日比国際児と母親たちに向けたオリエンテーションを開き、この法律の問題点を次のように整理して伝えた。


・もともと持っていた国籍を子どもの意思と関わりなく奪ってしまう点で、子どもの権利に反している。
・親が届出をしたか否か、外国で生まれた婚外子か婚内子か、日本で生まれたかフィリピンで生まれたか。これらのちがいによって、日本国籍を留保もしくは取得できたりできなかったりするのは、不平等である。
・前の2点において、権利の保障、法の下の平等を定めた日本国憲法にも反している。
説明を受け、自分たちには日本国籍を取り戻す権利があるはずだと強く感じた日比国際児24名は、2010年7月17日、日本政府は国籍法12条の瑕疵を認め、自分たちの日本国籍を認めるようにと、東京地方裁判所に提訴した。


10歳のユウコ・サトウもこの裁判の原告の一人だ。ユウコの父親は、ユウコが生後1か月のときに行方がわからなくなった。母は乳飲み子のユウコを抱えて、何が起こったのかわからないまま時が過ぎ、ユウコは日本国籍を失った。現在も父親は見つかっていない。


しかし、ユウコは自分の父親が日本人だと自覚するようになった小さいころから、日本に強い関心を持っている。箸の使い方を一人で何度も練習して、今ではいつも箸で食事をするようになった。学校にも箸を持っていって、それを使って弁当を食べているという。天真爛漫なユウコは自分に日本人の血が流れていることを決して隠しはしない。むしろ誇りに思っているのだ。


フィリピンの学校では、毎年10月にユナイテッドネイション・デーという行事がある。生徒の代表が世界各国の民族衣装を着て、パレードをしたり、ダンスを披露したりする催しなのだが、ユウコは毎年、教師から日本代表に指名されている。「私が日本人みたいだから選ばれたの」とユウコは自慢げにいう。娘に精一杯の愛情を注いでいる母親のグレイスさんは話す。「ユウコは日本で勉強して仕事につきたいと、幼稚園のころから言っているんですよ。私はもう年をとっていくだけだけど、あの子には未来があるから、娘が望んでいることは叶えてあげたい。あの子がもし日本国籍を取り戻すことができたら、日本で生活できるようにしてあげたいのですが……」。


ユウコと同じく10歳のアキコ・スズキの父は、日本とフィリピンを行ったり来たりする生活をしており、やはり3か月以内に届出がされていなかったために日本国籍を失った。だが、フィリピンの家で一緒に生活している間、父親はアキコと母親にとても優しかった。日本にいるときもこまめに電話や手紙をくれた。アキコが4歳になる前、父親から音信が途絶え、JFCネットワークに父親探しを依頼したところ、日本で亡くなっていたことがわかった。現在、アキコ母子は、スラムのなかで親戚と暮らしている。成績の優秀なアキコの夢は、将来、いい仕事についてお金を貯め、日本に行って父親のお墓まいりをすることだ。そのときのためにも日本国籍が欲しいという。


2010年12月、原告の意見陳述のために、原告の代表7人が日本にやってきた。渡航費用は寄付によって集められ、費用の都合上、日本に来ることができなかった原告の陳述は、ビデオに記録された。7人の代表のなかには、当時8歳だったユウコもいた。東京地方裁判所で幼いユウコは英語で次のように陳述した。


「私の父親は日本人、そして母親はフィリピン人です。私は日比国際児であることを誇りに思います。でも残念なことに、父親が行方不明になったため、私は日本国籍を失ってしまいました。私には心からのお願いがあります。私が日本人としてのアイデンティティを得るために助けてください。私の一番の夢は、日本の教師になることです。私はフィリピノ語や日本語を教えることで、ほかの日比国際児を助けたいです。もし私が日本国籍を取得できれば、将来成功することができると信じています」。


また、このとき、原告の一人で、すでに日本に滞在し、国籍再取得の届出をしていたアキラも意見陳述を行った。アキラが日本に来ることができたのは、兄が保証人になってくれたからだ。兄も同じ父親から生まれた日比国際児だが、兄が生まれた当時、両親は結婚していなかったため、兄は父親の認知を受け、大使館への届出によって日本国籍を取得していた。そして、日本に移って働き、生活の基盤ができたところで、アキラを呼び寄せたのだ。


アキラは短期の在留資格で入国しており、国籍申請をするには、在留資格を長期滞在可能なものに変更する必要があった。しかし、千葉の入国管理局に行くと、通常は日本人の子どもとして長期の在留資格が認められるはずが、出国準備期間の在留資格しか与えられなかった。そして、国籍再取得の届出に行った千葉法務局では、「日本に住所があるとは認められない」として、申請を却下された。アキラはその経緯について述べたあと、次のように訴えた。「私は父親の本当の子であり、兄の実の弟です。彼らと同じ日本国籍を取得する権利を与えてください」。


 そして、2012年3月23日。東京地方裁判所が下した判決は、原告のうち、日本に住んで、国籍再取得の届出をしていたアキラには、担当職員の対応に誤りがあったとして国籍を認めるものの、ほかの原告たちの申し立ては棄却するというものだった。


アキラ以外の原告の訴えを棄却した理由として裁判官は「国家との結合関係が乏しい者に対して国籍が付与されれば、国内法上の各種の権利、義務の行使や履行が滞り、実効性が確保できないことになる」と主張した。また裁判官は、国籍のあり方について次のように述べている。「国籍は、国家からさまざまな権利を保障されるとともに、国家にしたがう義務をともなう資格である。しかし国外にいる者は、日本に対して義務を果たすことはできず、実効性のない形骸的な国籍を持つ重国籍者になる可能性が高い。そうした重国籍者の増加を防ぐためにも、国籍法十二条による国籍喪失は、合理的なものだといえる」。


これに対し、原告側の近藤博徳弁護士はこう語る。
「東京地裁判決のいう、『実効性を欠く国籍』、『重国籍』に関して、実際にこれまでどのような不都合が生じているかは、立法的に証明がされていません。これにはいくらでも反論があります。ただ、私が一番落胆したのは、子どもの間に大きな差別的扱いをもたらしているという現実に、なぜ裁判官たちがこれほど無関心でいることができるのかということです。特に憲法裁判にとって重要なものの一つはバランス感覚だと私は思っていますが、国籍法十二条の制度に対する問題意識のかけらも見られない東京地裁判決は、率直に言って、常識的なバランス感覚を欠いた、情けないとしか言いようのない判決です」。


2012年5月、弁護団は再びフィリピンを訪れ、原告たちにごく簡単な言葉で、判決内容を説明した。自分たちと日本とのつながりを否定する判決に、子どもも母親も動揺や困惑を隠せなかった。父親から捨てられ、それでも父親から受け継いだ日本人の血に忠実に生きようとしている子どもたちには、とうてい飲みこめるものではない。


グローバル化が進んだ今、日本国籍を持っていても人生の大半を海外で過ごす人は多い。
日本で生まれたというだけで無自覚に日本国籍を得た者よりも、外国で生まれても日本を慕い、自らの意思で国籍を獲得しようとしている子どものほうが、将来、日本の社会に貢献する可能性だって十分にあるのではないか。日本人の血が流れている日比国際児とのつながりを否定する一方で、今、日本の介護は日本が権利を保障していない、フィリピン人に頼るようになっている。そんな日本の矛盾がフィリピンからはよく見える。それでも、ここにいる子どもたちは日本を祖国とよびたいのだ。


「当然、皆さんはこの判決に納得できないと思います。闘いはまだ終わっていません。一緒にがんばりましょう」。近藤弁護士は、原告たちを励まし、第二審に進むことを告げた。原告らは必要な書類にサインをし、2012年7月に第二審が提訴された。


今、ユウコとグレイスさんは、JFCネットワークで開いている教室に通い、日本語の勉強をしている。ユウコはひらがなを上手に書くことができる。グレイスさんは、教室に来ると必ず「おはようございます!」と日本語で元気よくあいさつをする。そんな彼女たちの人生を決めるのも、今後の判決しだいだ。


第二審の判決は2013年1月22日に下される。

マグダレーナの死と残された夢と


9月29日、いつも通り日本語教室のボランティアに行ったマリガヤハウスで、ある訃報を聞いた。亡くなったのは、クライアントの一人で3人の子どものシングルマザー、まだ46歳だった。前日の夜、頭痛を訴えて横になっていたのが、翌朝にはもう冷たくなっていたのだという。その一週間前にはマリガヤハウスのワークショップに参加し、元気に体を動かしていた。


彼女は赤ん坊のとき、教会の脇に捨てられていた孤児だったという。小学校3年生まで施設で暮らしていたものの、窮屈な生活を嫌ってか、ほかの子どもたちと脱走。それからハウスメイドをしたり美容院の案内係をしたりして働き、生きてきた。


美容院で働いていた21歳のとき、お客だった日本人に誘われ、エンターテイナーとして日本に働きにきた。しかし、もともと孤児だった彼女には出生証明自体がなかったため、必然的に不法入国となった。日本にいるうちに、彼女は3人の子どもを産んだ。上の二人は、それぞれ別のベトナム人の男性との間に生まれた子。下の子は、日本人男性との間に生まれた女の子、ミキだ。ミキが三歳になるまで、母子はミキの父親と一緒に暮らしていたが、その父親との仲も悪化。2002年にフィリピンに渡航するという別の日本人男性について、子ども三人とフィリピンに帰ってきた。しかし帰国後、その男性はすぐに別のフィリピン人女性と暮らし出した。


頼れる親戚もなく教育もない彼女が、ひとりで生計をたてることは容易ではなかった。いつしか母と幼い子どもたちは、公営墓地に住み、墓石の上で寝起きした。そんなときに手を差し出したフィリピン人男性がいたが、彼はドラッグユーザーだった。彼女もドラッグに手を染めるようになった。子どもたちの状況を見るに見かねた人の通報によって、ミキと兄たちは保護され、児童養護施設に入った。


その後、ミキの父親が日本人であることを知っていた母親の友人が、日本の父親を探し出してミキの養育支援を依頼できないものかと、マリガヤハウスに相談にきたことから、マリガヤハウスと母子との関わりが始まった。最初のころ、突然マリガヤハウスを訪れた母は、ドラッグ中毒のため、まともに会話ができるような状況ではなかったという。


けれども彼女はもう一度子どもたちと暮らすため、これまでの自分の人生を反省し、ドラッグをやめて洗濯婦として働きはじめた。マリガヤハウスは子どもと暮らすのは、もう少し経済力がついてからとアドバイスをしていたが、子どもと離れ離れの暮らしに耐えかねたのだろう。彼女は施設から強引に子どもを引き取った。マリガヤハウスには「これからは家族で暮らしていく」という報告をしたきり、音信が途絶えたという。


数年後、彼女からふたたびマリガヤハウスに連絡があり、スタッフが訪問した家庭の生活状況は大変なものだった。彼女の洗濯婦としての稼ぎは1日200ペソ(約400円)、それだけで家族4人が食べていかなければならない。家はブタ小屋を改造した粗末な小屋を借り、お金がないときは食事を抜いていた。そんな生活のなかでも、子どもたちはきちんと学校に通っていた。母自身が無学で苦労してきたこと、勉強することの大切さを子どもたちに聞かせていたのかもしらない。そんな頑張りが認められ、ミキは奨学金の支援を受けるようになった。


私が彼女とミキに会ったのは、亡くなるつい2週間前のことだった。その日は、子どもの将来について親子で考えるというワークショップがあった。彼女はあっけらかんとした調子で「ごめんね、私、英語わからないの。小学3年生までしか学校に行っていないからさ。タガログ語と日本語しかわならない」と言った。


子どもの将来を考えるワークショップであったものの、ミキはおとなしかった。母はしゃべらないミキにかわって「この子は警察官になりたいのよ、日本のおじさんが警察官だったから。今でも写真を持っているよ」と、ときどきテンポのおかしな日本語でくりかえし言った。その横で、ミキは「先生」と「働いて親を助ける」という二つの夢をワークシートに書きこんだ。


彼女は「将来は子どもと日本に帰りたい」ということを何度も口にした。あちこちで、いろんなフィリピン人から同じことを聞いている私は「今は日本だってそんなに思っているほど良くないですよ」とお決まりのようにいった。「でも、仕事あるでしょう。日本だったら私だって、会社に入れたもの。卵からマヨネーズつくる工場ってあるでしょう。そこで働いていたの。フィリピンだと、もう洗濯するか掃除する仕事しかないよ。だって、私小学校3年生までしか出ていないもの」


そういわれると返事に詰まった。後から彼女の生い立ちのことを聞いて、自分が日本人の物差しだけで、彼女を測ろうとしていたように感じた。けれども、そんな私に不愉快な顔を見せるでもなく自分のことを正直に話してくれた彼女に感謝した。


先生、医者、アーティスト…。フィリピンの子どもたちだって、最初はみんな大きな夢を持つ。けれども、彼女はそんな夢をみること自体、小さなときにあきらめたのかもしれない。そして40代半ばになった今の、夢らしいものは、もう一度日本に行き、工場などで職を得て働くことだったのだ。


でも現実には、それすらも達成するのは難しい夢だった。彼女もミキも出生証明がなく、父親と連絡がとれたとしても、認知を得たり日本国籍を取得したりすることができない。証明書を得るにはお金がかかる。日々食べていくのがようやっとの今の生活では、証明書を取るお金をためることも容易ではなかった。


そんな厳しい現実を聞きつつ、親から養育放棄された子たちをふだん見ている私には、母に頭をなでられ、はにかみ笑ったミキの姿が微笑ましく写った。上の二人の息子についても、「お兄ちゃんたちは本当に頭がよくて、私の自慢」と彼女は語った。母を知らずに育った彼女が自分なりに精いっぱい役割を果たそうとし、母としての喜びも感じている。
「あなたにとって子どもはどんな存在ですか?」もっと親しくなって、そんなことを聞いてみたいと思っていた。


でも、それをたずねることはできなかった。
彼女の訃報を聞いた日、フィリピンの名曲、フレッディ・アギラの「マグダレーナ」を繰り返し聞いた。この曲のなかでマグダレーナとは、お金もなく教育もなく、愛にやぶれ、売春婦として働くしかなかった女性の名前だ。フレッディはマグダレーナのことをこんなふうに歌う。


君はあらゆる困難に耐えてきた

君の夢は貧しさから抜け出すこと

マグダレーナ、君はなんて不幸なんだ

いつになったら彼らは君を理解してくれるだろう

君はただ平穏に暮らせることを望んでいる

でも、世界はひどすぎる

いつまで君は待てばいいのだ?

いつまで我慢すればいいんだ?

君の祈りは、いつ届くんだ?


棺も墓地も購入する費用がなかったため、苦しそうな表情をした遺体は一週間以上の間、自宅に寝かされていたという。だが、近所の人たちが寄付を集めてくれたおかげで、何とか埋葬された。


マリガヤハウスは今後の子どもたちの支援方法を模索しているところだ。なんとか子どもたちには大学まで卒業してほしい。たとえ先生や医者になることはできなくても、少しでもたくさんの選択肢を得てほしいと考えている。


貧しさから抜け出して平穏に暮らしたいという、母親のささやかな夢は生前に報われなかったかもしれない。けれでも、きっと母は今も、自分とちがった人生を子どもたちが手にできるよう、天国から祈り続けているにちがいない。

※文中の子どもの名前は仮名

プロフィール

野口和恵

フリー編集者・ライター。児童書編集にたずさわるかたわら、国内外の子どもを取り巻く問題について取材。

著書に「日本とフィリピンを生きる子どもたちージャパニーズ・フィリピノ・チルドレン」(あけび書房)がある。


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