Archive for the ‘日本とフィリピンの間に’ Category

遠い島より 流れ寄る 椰子の実
―フィリピンの戦没者慰霊祭―


今年2月、震災のあとから縁のできた南相馬市をふたたび訪ねたとき、ある高齢の女性と出会った。私が「今はフィリピンに住んでいます」と話すと、女性の表情が変わった。「フィリピンですか? 私もフィリピンは何度も行きました。父がフィリピンで戦死したので」。


お父さんが亡くなった当時、その方はきっとまだ小さな子どもだっただろう。大人になってからフィリピンに渡り、お父さんが亡くなったと思われる場所を訪ね、お墓を建てたそうだ。旦那さんは神主さんであったため、何度も一緒に終戦記念日にフィリピンに行き、祈りをささげたという。そのうちにフィリピンの貧しい子どもたちの生活状況を知り、洋服や学用品の寄付もしていたそうだ。


けれども旦那さんが数年前に倒れ、入院生活を送るようになってからはフィリピンに行けずにいる。「またフィリピンに行きたいけどねぇ。でもフィリピンに住んでいるあなたが南相馬市のことを思い出して来てくれるなんてうれしいねぇ。これが絆だねぇ」とその方は言った。震災のあと、あちこちで使われすぎて、すっかりパサパサになったように感じていた「絆」という言葉が、そのときは胸にしみた。


先月、日本大使館からのメールで8月15日の戦没者慰霊祭の案内を受け取ったとき、その女性のことが思い出され、出席の返事をした。


会場はラグーナ州カビンティ・カリラヤのジャパニーズメモリアルガーデンだという。同じくラグーナ州にある私のアパートからあまり遠くないようだが、添付されていた地図は自家用車で来場する人を想定したもので公共交通機関についての案内がない。大使館に問い合わせようと思いながらすっかり忘れ、当日の朝は早めに出発することにした。


前の週の洪水の影響でまだ浸水中のエリアがあり、渋滞に巻き込まれた。途中で歩いて、パグサンハンという町までたどりつく。予想以上に移動時間がかかって、ちょっと焦りつつ地図を出したとき「カリラヤに行くの?」と近くにいた中年の男性に声をかけられた。日本人がその場所をよく訪れることを知っているのだろう。


「カリラヤに行くには、ジプニー(乗合バス)で1回乗りかえだよ。トライシケル(三輪自動車)だとそのまま現地まで行ってくれるけど高いだろうね」と言って、試しに近くにいたトライシケルドライバーと交渉してくれた。ドライバーは無茶苦茶な金額を言ってくる。幸い後ろからジプニーがやってきたため、それに乗った。最後にその人は「この人がカリラヤに行きたいから降りる場所を教えてやってくれ」とドライバーに頼んでくれた。


ドライバーは頼まれたとおり降りる場所をちゃんと指示してくれ、同乗していた女性は「カリラヤに行くのね。気をつけて」とやさしい顔で声をかけてくれた。かつて戦争の加害者だった日本人が、亡くなった日本兵を追悼しに行く。それを快く手伝ってくれる人たちがフィリピンにはいる。それがうれしかった。
  

 


ジャパニーズメモリアルガーデンは緑に覆われた広々とした庭だった。どこからか懐かしい日本の歌が聴こえてきた。白い服を着た合唱隊がセレモニーで歌う曲の練習をしていた。


日比両国の国旗が建てられたセレモニーの会場は思っていたよりこじんまりとしていて、髪の黒々とした中年層の姿が多かった。私と同じくらいかそれより若い人たちの姿もちらほら。子どもを連れて参加する人もいた。服装は黒い礼服が多かったが、フィリピンのバロンタガログを着ている人もいた。

  


戦後67年という月日が経ったせいか、戦没者の同胞、または子どもと思われるような方たちの姿は、予想していたよりも少なかった。南相馬市の女性のように、ここへ来たいけど来られなかったという方はたくさんいるだろう。そのなかに、脇を支えられ、おぼつかない足どりで歩いてきた高齢の男性がいた。


セレモニーは日本フィリピンの国歌斉唱で始まり、黙とう、マニラ日本人会の会長のあいさつ。「フィリピンでは50万人の日本兵が亡くなりました。でもその倍以上のフィリピン国民を犠牲にしたことを忘れてはなりません」という一節が心に残った。


続いて献花。それにあわせて合唱隊が日本の唱歌を歌い始めた。一曲目は「椰子の実」。


「名も知らぬ 遠い島より 流れ寄る 椰子の実ひとつ
ふるさとの 岸を離れて なれはそも 波に幾月
もとの木は 生いや茂れる 枝はなお 影をやなせる
われもまた 渚を枕  ひとりみの 浮き寝の旅ぞ」


曲に耳をすましながら献花の様子を見ていたら、私も自然とつられて歌詞を口ずさんでいた。67年前、日本兵たちも同じように故郷を思いながら、この歌を歌っていたかもしれない。


献花の列が流れていくなかで、先ほど脇を支えられ会場に入ってきた男性が献花台の前に立った。男性は倒れこむように身をかがめ花を供え、付き添いの人に介助されて身を起した。


その後、数十秒間くらいだろうか。
その男性はピンと背筋を伸ばした姿勢で直立した。だれもがその様子に何かを感じとり、男性の背中に注視していたように思う。付き添いの人に促されるまでその場にじっと立っていた。
後からその方は特攻隊の一員だったことを知った。


フィリピンやほかの国々を侵略した歴史をもう繰り返してはならないと思う。けれどもそのときは、国のために戦ったかつての少年の背中に畏敬の念のようなものを感じた。


もし今、私たちの世代が国のために本気で何かをするとしたら、それはどんなことだろうか? 
もっともこれだけ多くの国とつながっている現代は、「国のため」という意味もちがうはずだ。


式典の終わり、かげから祈りをささげているフィリピン人女性がいることに気づいた。



だれのためかはわからない。けれども、死者を悼む気持ちは、国籍がどこであっても、日本にいてもフィリピンにいても、きっと一緒なのだ。それを忘れないことが、戦争のない社会への一歩になるのだと思う。

 

「おとうさん、あなたはどんなひとですか?」
~ジャパン・フィリピノ・チルドレンのこと

マリガヤハウスにて


ボランティアをするにしても、どうして「フィリピン」に行こうと思ったの? と聞かれることがよくある。


ここ数年のうちに、いろいろなタイミングと縁が重なったからというだけで、どうしてもフィリピンに行きたいと思い続けていたわけでもない。


でも記憶をたどっていくと、私のフィリピンへの関心は、子どものときにたまたま見たテレビから始まっていたように思う。でも、それはストリートチルドレンではなく、日本人とフィリピ人の間に生まれたジャパン・フィリピノ・チルドレン(以下JFC)を取り上げた番組だった。


国際結婚がめずらしくない現在、日本とフィリピン、二つの国にルーツを持つJFCが知り合いや友人にいるという人も多いと思う。日本の社会の一員として、学校に通ったり働いたりしながら、フィリピンともつながっているJFCがいる。


その一方、この世に生を受けて間もなく、または生まれる前に父親の音信が途絶え、事実上養育を放棄されたJFCも少なくない。


私がその番組で見たのは、フィリピンの飲食店で働いていた女性と、仕事でフィリピンにやってきた日本人男性との間に生まれたJFCたちのケースだった。記憶しているのは、次のようなことだ。


どのケースの場合も、母と父は、店のスタッフとお客という関係から始まり一定期間私的なやりとりをしていたが、母親の妊娠後、父親からの連絡がなくなったという。母親たちの多くは父親から勤務先の住所を教えられていたが、そのほとんどが架空のものだった。


そのなかで唯一、実在していた会社をリポーターが訪ねた。顔にモザイクのかかった日本人男性は、激怒してこう言っていた。
「子どもができたなんて、そんなの相手のミステイクじゃないか!」
そのころは、どうして子どもができるのかもはっきりとは知らなかったから、男性の言葉の意図を完全に理解したわけではない。ただ、当時、11、12歳だった私は、自分がその父親の子どもだったら、と想像した。


自分がまちがいで生まれてきたと父親にいわれたら、子どもはどうやって生きていけばいいの?


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それから15年あまりの月日が経って、フィリピンのストリートチルドレンと関わる一方で、JFCのことがやはり気になっていた。


日本人の父親に養育拒否されたJFCを支援している二つのNGOに連絡をとって話を聞き、何人かのJFCとその母とも知り合うことができた。状況はいろいろだった。フィリピン人女性とは遊び半分でつきあい、最初から親としての責任を放棄していたような父親もいれば、現在、音信は途絶えていても、子どもが生まれたときに心からその誕生を喜び、日本人の名前をつけた父親もいることを知った。けれど、いずれの場合にしても、NGOに相談に来るJFCの多くは、父親の記憶を持っていない子たちだ。


親が日本人同士であっても、片方の親を一緒に暮らすことができず、辛い思いをしている子どもはたくさんいる。JFCの場合はそれに加え、国というアイデンティティの問題や経済的事情にも悩まされている。


フィリピンで暮らすJFCは「なぜ、日本人の名前なの?」と人に聞かれるたびに、答えられず、なにか自分に欠落しているところがある、と感じるのだという。
また、「お父さんが日本人だから、お金をたくさん送ってもらっているのでしょう。いいなあ」と好奇の目を向けられることも多い。実際には親戚に助けれ、ようやっと食べ物が買える状態であっても、日本人の名前がついているだけで、奨学金の対象から外されることもあるという。そんな状態を脱するために、母親が海外に出稼ぎに行き、祖父母や親戚に育てられているJFCもいる。


NGO「JFCネットワーク」では、JFCの父親さがしや、認知を得るための手続きを手伝っている。ケソン市にある、JFCネットワークの現地事務所「マリガヤハウス」では、音信の途絶えた日本人の父親と連絡をとりたいという母子からの相談が寄せられている。連絡をとる目的は、母親の場合、養育費の要求であることが多いが、子どもは、ただ自分の父親に会いたい一心だ。日本語を練習して、父からの返事が返ってくることをかすかに期待しながら手紙を書く子どももいる。


そのマリガヤハウスで、先月から日本語を教えることになった。
お母さんと日本語教室に来ている8 歳の女の子は、日本で教師になって、自分と同じJFCの子どもにタガログ語や日本語を教えるのが夢だ。両親は婚姻関係にあり、日本人の姓名を持っているものの、生まれたときから父親は行方不明のままで、彼女には日本国籍がない。将来の夢のために、彼女はいま、日本国籍取得を求める原告団の一人になっている。(この裁判のことについては、改めて書きたいと思う)


日本人にとっては、どこか「負い目」を感じるからなのか、日本に関わりの深いことであるにもかかわらず、JFCたちが抱える問題には目を向けられることが少ないように思う。でも、彼女のようなJFCがいることを、一人でも多くの日本人に理解してもらえたらと思う。


そして、いつか彼女たちが日本に行くことができたら、父親の国で社会の一員として胸を張って暮らせるように、精いっぱい日本語の勉強を手伝いたいと思う。

フィリピーノに看取られた日本人女性

2012.2 in Fukushima



先日、親しいスタッフが私にたずねた。
「日本に行ったら、うちの夫にも何か仕事が見つからないかな? 工事の仕事とかさ?」


彼女の夫は現在38歳。
10代のころ、4、5年路上暮らしをしていた彼は、20年前、バハイ・トゥルヤンの草創期に支援を受けたストリートチルドレンだった。
働きながら高校を卒業し、一時期は大学にも通っていたが、きょうだいが病気になり、治療費を支えるために学業を中断して働いた。
そして今は、6人の子どもの父親で、ここ5年間は、仕事のために週2日しか自宅に帰れない妻にかわり、自宅で子どもの面倒を見ている専業主夫。
フィリピンではこんな男性はめずらしくない。


だけど、子どもたちの学費がかさんできたため、彼も仕事を探しはじめた。
とはいえフィリピンの経済状況は相変わらず。年齢的にも仕事を見つけるのは難しいため、海外への出稼ぎも考え出したようだ。

私は答えた。
「今は日本人だって仕事がなかなか見つからないし、まず、ビザをとるのはとっても難しいよ。給料はフィリピンよりいいかもしれないけど、生活費だって高いから、フィリピンにお金を送ろうとしたら、旦那さんが生活するのはとっても大変だよ。都合のいいことをいうエージェントがいたら、それは嘘をついている悪い人たち。日本人はフィリピン人ほど外国人にやさしくないし、私はすすめられない」


夫婦のためを思えば、というつもりで、日本行きをあきらめるための正当な理由を、私はあれこれ言った。妻であり私の同僚でもある彼女は「そうなんだ」と理解を示したが、私のなかにはもどかしさと後ろめたい気持ちが残った。


これまで「donated by Japan」と書かれた橋や学校が次々に建設されてきたこと、フィリピンを訪ねた日本人が派手にお金を使っている様子を何かにつけ見聞きしてきたフィリピン人は、日本は寛大で世界一お金持ちの国というイメージを強く持っている。
そんな「ジャパンドリーム」を抱いた外国人を安い労働力として、見えにくいところで都合良く使ってきた日本。経済が低迷した今は、ビザを厳しく制限しながら、看護・介護職だけ特別枠をもうけ、受け入れを拡大していること。偽装結婚を持ちかけるエージェントも横行していること。そして、その事実を知りながら、労働力として使う事業者たちが今もいること。
もしそんな矛盾を問われたら、何と答えればよいかわからない。


フィリピンで暮らしはじめてから、買い物中に店員から日本語で話しかけられたことが何度かある。みんな一年ほど日本で働いた経験のある人たちだった。たいていは20-30代の独身男性で、身の危険や家族と別れるさみしさをあまり感じなかったせいかもしれないが、ビザさえ取れるなら、また日本で働きたいと口をそろえていっていた。


そのうちの一人は、バタアン州のセブン・イレブンで働いていた30歳の男性だった。
6年前にダンスの講師として日本に行ったという。
私が日本人だとわかると「にほんご、はなしたい! いいですか?」と、すっかりハイテンションになり、業務そっちのけで日本での思い出を話しはじめた。


彼の日本での月給は150ドルで(なぜドル建てだったのかはわからないけど)埼玉に住んでいたとのこと。とくにフィリピンにいる家族が送金をあてにしていたわけでもないらしく、日々の生活に満足していたみたいだ。
「でも日本はルールに厳しくて、すぐに怒られるじゃない?いやじゃなかった?」と聞くと、「きびしいの、いいことじゃん!もんだいない」という。
雇用主だった日本人男性はフィリピン人女性と結婚していて、ちょうどその翌日も家族でフィリピンに遊びに来るので案内するという。話はなかなか止まらない。


20分前に加熱をお願いした私のラザニアが電子レンジのなかで冷めていくのが気になり、さすがに話を切り上げようとしたとき、彼は少しだけ低いテンションになって言った。


「おばあさんと結婚して、日本にいたかったけど、できなかったんだ」。
「えっ?」
彼の日本語のボキャブラリーからは詳細までは把握できなかったが、何でも日本にいる一年の間に、80歳の女性との結婚を考えたらしい。しかし、届出をしたところ、ビザの更新を目当てにした結婚だと疑われ、婚姻は認められなかったという。そして、彼は言った。


「おばあさん、ぼくの家で死んじゃったんだよ。かわいそうだったー。かなしかったー。」


目の前にいる陽気なフィリピーノが、その高齢の日本人女性とどのような関係だったのか。
実際、ビザの更新のために死期の近い女性を利用としようとしていただけなのか。私には判断つきかねた。


ただ彼の話の通りであれば、その日本人女性は、ほかのどの日本人でもなく、短いつきあいだったフィリピン人の若者に看取られ、80年の生涯を閉じたということ。
それははっきりしている。


フィリピンから見える祖国は、矛盾に満ちてて、脆くて哀しい国。
次に日本と再会するまで、もっともっと覚悟が必要かもしれない。

For their country 
―バターン州の戦跡をたずねて―

サマット山頂上の戦争資料館にあったクリスマスの飾り。この土地にもクリスマスはめぐってくる。


クリスマスイブから元旦まではバハイ・トゥルヤンで過ごして、1月2日からは4日間の振り替えクリスマス休暇。どう過ごそうか迷った末、一度は行っておこうと思っていたバターン州へ行くことにした。


今回の旅の目的は、戦跡をたどること。
第二次世界大戦中の日本人の戦没者数は、約240万人。そのうちの5分の1がフィリピンで亡くなっているといわれている。


当時アメリカの支配下にあったフィリピンには、広範囲に及び日本人が侵略した。マニラから100㎞ほどのところにあるバターン州は、そのなかでも激戦地として知られ、日本が世界から非難を集めた「バターン死の行進」が起きたところだ。

バガックからサン・フェルナンドまでハイウェイに1㎞ごとに立っている「死の行進」の道しるべ


1941年4月、バターン半島での激戦の後、日本軍はアメリカ、フィリピン連合軍を降参させた。日本軍は、バターンにいる連合軍の兵士を3万人程度と予想していたが、実際に降伏してきた兵士の数は、その倍以上だったという。避難民のフィリピン人もまじり、日本軍は総勢約10万2000人もの身柄を負うこととなった。輸送機関は破壊されていたため、捕虜を収容所まで移すのに、やむを得ず列車のある町まで60㎞~120㎞の距離を歩かせた。だれもが疲れ切っていた体で、ごくわずかな食糧しかとることができずに炎天下を歩き、約3万人もの死者が出たといわれている。


その「死の行進」のルートをジプニーで移動すると、ハイウェイ沿いに小さな集落がぽつぽつある以外は、人の手の入っていない自然が広がっている。この景色は戦時中とあまり変わっていないのではないだろうか。ちょうど空には黒い雲が立ち込め、正直怖い気がした。

旅のメインはサマット山。この山の頂上には戦没者を悼む十字架が立っている。
ふもとまでジプニーを下り、停車していたトライシケル(自動三輪車)のドライバーに往復の送り迎えをお願いして頂上に戻った。

サマット山頂上からバターン州を臨む


頂上の戦争資料館に入る。先客でフィリピン人の家族連れがいた。彼らは日本人が入ってきたことに気づいていないようだったが、「ジャパニーズ、ジャパニーズ」と会話の端に言っているのが聞こえた。何か日本がやったことに対する批判だろうか? ドキッとして、そっと視線を送る。どうやら戦時中に日本の軍事政府がフィリピンで発行していた紙幣を見て、「日本の通貨単位は何だったっけ?」と話しているようだった。


ここに来るまでの途中、何人かのフィリピン人に自分が日本人であることを告げたが、嫌な顔をする人はいなかった。むしろよく来たという反応だった。
資料館の展示でも、日本軍の残虐行為をあえて強調するような記述はない。意外なことに日本軍兵士の軍服や鉄かぶとなどの遺品があった。日本人を写した写真も多い。マニラの路上で息絶えた日本人。また、軍事訓練をする少女たち、顔にあどけなさの残る神風特攻隊員の写真など、日本で撮影されたであろう写真も展示されている。
こうした展示を見ると、むしろ敵国であった日本への同情もわくのではないだろうか。そう思うのは、私が日本人だからか。


展示の解説によると、1943年ごろのフィリピンは、同盟国であるアメリカからの物資の供給が不足状態にあった。そのなかで、日本軍がフィリピン人に薬や食料を配ったり、仕事を与えたりしたこともあり、フィリピン人のリーダーのなかには、日本軍を歓迎する人もいたという。これはしたたかな戦略の一部だったかもしれない。それでも、日本人としては少し心が軽くなる。


展示されている写真は、アメリカ人ないし日本人が主体となったものが多くを占め、フィリピン人をクローズアップしたものは少ない。おそらくアメリカや日本の記録写真から集めてきた展示だろうから、当然といえば当然かもしれない。そんなところでも、この戦争はフィリピン人が自ら進んだものではなく、日米の軋轢に否応なしに巻き込まれたものだったと感じる。


サマット山の中腹には、二つのお地蔵さまが立っていた。
一つは、日本で見るのと同じ姿のお地蔵さま。もう一つは、子どもを抱き、首から十字架をかけた女性のお地蔵さま。女性のお地蔵さまの前には、「鎮魂」の文字とその下に英語で、
「dedicate to solder who died for their country」というメッセージがあった。
これを寄贈したのはだれだろう? フィリピン、アメリカ、日本人?
それがだれであっても、三つの国を含めてのtheir countryなのだろう。
三つの国の犠牲者のことを思い、手を合わせた。


近くて遠い隣人・海外フィリピン人労働者(OFW)5
~それぞれの幸福感


マリーンさんの2年ぶりの里帰りに図々しくついてきた私に、マリーンさんの家族はとても親切に接してくれました。最終日、お父さんが運転するトライシケルでバス停まで送ってもらい、マリーンさんと空港へ向かうバスに乗りこんだあと、私はずっと気になっていたことをたずねました。


「ねえ、フィリピンに帰って暮らしたいとは思わない?」
「え? 思わないよ」
「でも、ここにはあんなに優しい家族がいるのに。日本ではつらい思いをたくさんしたでしょ?」
「つらいよ。でも日本にいると、おなかがいっぱいになる。心はいっぱいでなくてもおなかがいっぱいになるから、そのほうがいいの」


それを聞いてなんだか少し悲しく感じたのは、空腹に悩まされた経験のない私の勝手な感傷だったのかもしれません。もしも、私がマリーンさんの家族と同じような生活を一生できるかと聞かれれば、答えはノーです。事実、今の私の生活は日本にいるときにくらべればかなり質素ではあるものの、平均的なフィリピン人の生活にくらべればかなり贅沢です。
ときどきマリーンさんの弟の1日分の給料と同じ金額を1回の食事に使うことだってあります。


「私の考えはとてもプラクティカルでしょ」
返答のない私にマリーンさんは重ねて言いました。
でも、マリーンさんは口で言うほどクールな人ではないことも数日間の滞在でよくわかっていました。あちこちから集まってきた親戚たちに、日本からのおみやげを渡し、朝から夕方まで、たっぷり食事をふるまいました。
「あんなにたくさん家族を連れてきて食べていくこと、日本では考えられないでしょ。お金持ちの人たちだったらやらないよ。失礼だと思うけど、私も昔はおなかをすかせていたからその気持ちもわかるの」というマリーンさん。
本当にたくましく、情の深い女性です。

けれども、彼女が弟もドバイに働きに行かせたいと言ったとき、私は表面的にも同意をすることができませんでした。
その弟には、昨年子どもが生まれたばかり。さらに今年もう一人生まれてくる子どもがいます。


私はバハイ・トゥルヤンでボランティアをしながら、親が海外に出稼ぎに行ったことがきっかけで家庭が崩壊したというケースを何件も聞いてきました。
定住ホームでくらすエリザの母親は、エリザを生んですぐにドバイに働きに出て、そのまま現地の男性と結婚し、音信が途絶えたといいます。エリザは母親の顔を知らずに育ちました。また、母親が海外に働きに出ているうちに、父親が別の女性と暮らすようになり子どもが放置される、父親が娘に対して性的虐待をするといったケースもよく起きているといいます。


OFWの子どもに限らず、バハイ・トゥルヤンにはさまざまな事情で親と暮らせない子どもがいますが、おそらくどの子も一番強く望んでいるのは、家族との平穏な暮らし。


ある姉妹は、7年前に子どもたちを置き去りにした母親との関係が修復され、友人と共同で家を借りて生活を始めました。一度その家を訪ねたことがあります。マリーンさんの家よりも小さく、廃材を集めてつくったような家です。定住ホームにいたとき、ぽっちゃりしていた子どもたちは少し痩せたようでした。けれども彼女たちは母親にぴったりくっついて、よく笑っていました。


物質的に豊かになること。
家族で寄り添って仲よく暮らすこと。


そのどちらも幸せに暮らすために必要な条件です。
けれども、今のフィリピンではその両方を実現できるのはごくわずかな人で、多くの人はどちらにプライオリティをおくか、どこで折り合いをつけていくのか、迷いながらそれぞれの幸福感を持って、必死に、あるときはしたたかに生きているのではないでしょうか。私はそんなふうに思うのです。


世界情勢の変化とともにOFWを取り巻く状況が、フィリピン人の幸福感がこれからどのように変わっていくのか。それを日本人の物差しで測ることなく見ていきたいと思う一方、もっと子どもにとって幸せな社会になってほしいと心から願うものです。


近くて遠い隣人・海外フィリピン人労働者(OFW)4
~OFWの故郷を訪ねて~

 


マリーンさんの生まれた町はミンダナオ島、ダバオ空港からバスに乗って1時間ほどのところにありました。
「この家は、名古屋にいたときの友達の家です、こっちは最初に福岡に一緒に行った友達の家。この家は…」
実家の近所に来ると、マリーンさんはあちこちの家を指さして説明してくれました。それによると、何やらこのあたりは数軒に1軒の割合でOFWの家族がいて、そのおもな行き先が日本だということになります。


これほど日本への出稼ぎが多いのは、この土地に日系人が多く住み、日本との強いパイプを持つエージェントがあったため。フィリピンには、ほかにも日系人が集まっている土地があり、90年代はどの土地にも日本へ出稼ぎ労働者を送り出すエージェントがあったといいます。(ビザの発給条件が厳しくなった現在は、こうしたエージェントは減っているようです)
そして、フィリピン人を日本に送り出した日系人の祖先は、第二次世界大戦前、当時、アジアのなかで豊かだったフィリピンに出稼ぎに来ていた人たち。時代の変化というのは、本当に不思議なものです。


実家に着く前、マリーンさんは何度も私に「せまくて天井も窓ガラスもない家だよ、ごめんね」とあやまりました。すでにフィリピンで暮らしている私は、多少の不便さは気にならないのですが、マリーンさんも家族も日本からのビジターがどういう反応をするかとても心配していたようです。
到着した家は、セメントを塗っただけの外壁にトタンの屋根をかぶせた素朴なつくり。フィリピンのなかでは、よく見かけるタイプの家です。
中に入ると、ベニヤ板で部屋が仕切られています。そこには、マリーンさんのおじいさんと両親、弟夫婦と子どもの計7人が暮らしていました。
床もセメントを固めただけのつくりですが、テレビのあるリビングにはクリーム色のタイルが貼られています。
「毎月、少しずつしかお金を送れないから、今月はドアをつける、来月はここにタイルを貼る、その次はソファを買う、とか決めて、少しずつきれいにしているの。だから今はきれいなところがあったり、きたないところがあったりするの」とマリーンさん。
フィリピンの家にしてはめずらしく、シャワールームとトイレは別になっていました。
「これは、日本人には使いやすくていいよ」というと、
「それは、お父さんがそのほうがいいと言ってたから」とマリーンさん。
お父さんというのは、マリーンさんの元の交際相手、息子の父親である日本人男性のことです。
「お父さんがそんなことを言ってたから、家を建てるお金を出して、ここに遊びに来てくれるのかと思っていたよ。でも2年間お金を送ってもらえなかったから、あきらめてドアも窓もない家をつくって、みんなで無理矢理ここに住んだ」
リビングの壁には、大きな額に入った金閣寺の写真がありました。一度だけフィリピンを訪ねた男性が持ってきたおみやげだといいます。日本を出る前、空港の販売店で買ったものでしょう。シンプルな家のなかではそれがやけに目立っていました。


「カズエさん、あれはクボっていう古いフィリピンのスタイルの家。私たちもここに来るまでは、ああいう家に住んでいたの。あっちは家族が日本で働いている人の家」
呼ばれて行ってみると、マリーンさんの家の裏には、対照的な2軒の家がありました。
ひとつは、木とココナツの葉でつくった小さな家、その奥には、日本の一軒家と同じようなきれいな家。


その違いを見たとき、私は自分の子どものころのことを思い出しました。
私の家は農家で、11歳まで住んでいた家は、明治のころに立てた古い農家の家でした。
茅葺きの屋根で雨盛りがひどく、大雨の日は家の中で傘を差したこともありました。トイレはいわゆる「ぼっとん便所」で、外にあったため、夜は怖くて一人ではトイレにいけませんでした。両親ともいつも茶色に焼けた野良着を着て畑を耕していました。
そんな生活ならではの楽しみもありましたが、周りの家が屋根も壁もきれいな色をしていて、お父さんが格好いいスーツを着て仕事に行って、お母さんがいつもきれいにお化粧しているのを見ると、自分の家が恥ずかしく、友達を家に連れてくるのも嫌でした。
その後、親の仕事も住まいも変わり、そうした劣等感はいつしか忘れていましたが、それを思い出し、女性たちが海外に行きたいと思った気持ちはわかる気がしました。


マリーンさんがいろいろと私の世話を焼いてくれている間、マリーンさんの息子はいとこたちと元気よく遊んでいました。マリーンさんが一人で日本に働きに行っている間、彼はマリーンさんのお母さんに育てられました。そのためでしょう、おばあちゃんのことを「ママ、ママ」とよんで甘え、夜も一緒に寝ていました。
「あの子、日本に帰りたくないんだって。日本にもたくさん友達いるのにね。たぶん、おばあちゃんがいるからだと思う」。
そう話したマリーンさんは少しさみしそうでした。
息子のためにもと、ひとりで日本で働いた日々。
その時間を、息子はどのように感じているのでしょうか。(その5へ続く)


近くて遠い隣人・海外フィリピン人労働者(OFW)3
~ある女性のこと~


2000年代前半まで、日本に来たOFWのうちの多くは、興業ビザで入国した女性たちでした。興業ビザは、歌やダンスなどの芸能活動を行う人に発給されるビザです。興業ビザで来日した女性たちは、おもにクラブなどの飲食店で働いています。


私が日本で知り合ったマリーンさん(仮名)は、2000年に興業ビザで日本へ来ました。マリーンさんが生まれ育ったのは、紛争が続き、フィリピンのなかでも特に貧困が深刻なミンダナオ島の町でした。4人兄弟の長女であるマリーンさんは12歳のときから働き、家計を支えてきましたが、まともな収入が得られる仕事はありませんでした。
町には日本へエンターテイナーを送り出すエージェントがあり、毎年、多くの女性が日本へ働きに出ていました。マリーンさんもエージェントのオーディションを受け、福岡の飲食店で働くことが決まりました。そのとき、お母さんは心配して反対しましたが、仕事を手にしてもなかなか長続きしないお父さんは、何も言わずに娘を送り出したといいます。


マリーンさんは、飲食店が借り上げた小さな寮で日本での生活を始めました。興業ビザの期限は6か月。食費以外の賃金は月給制ではなく帰国時にまとめて支払われる契約になっていました。けれども、航空運賃、仲介手数料など渡航までにかかった経費と、家賃、光熱費などの生活費が天引きされるという条件で、6か月間の給料ではほとんど手元にお金が残らない計算になっていたのです。そのため、マリーンさんもほかの女性たちもオーバーステイをして、日本で働き続ける道を選ばざるをえませんでした。フィリピン人女性たちを大勢雇ってきた店のオーナーは、もちろんマリーンさんたちのこうした事情を知っていました。けれども、オーナーは不法滞在という弱みにつけこんで、マリーンさんたちを不当な労働条件で働かせ続けたのです。


それでも、マリーンさんは日本に来てよかったと思いました。フィリピンにいたときとは違って、おなかいっぱいご飯を食べることができて、お客さんからもらったチップをためた仕送りで弟、妹をハイスクールに通わせることもできました。そして、お客さんとして来ていた一人の日本人男性と恋愛関係になりました。
ところが、ある日、オーナーから強制的に帰国を命じられ、その翌日、フィリピンに帰国することになりました。店に何らかの捜査が入る恐れが出てきたため、マリーンさんたちを帰国させて証拠隠滅をはかったのでしょう。


帰国後、マリーンさんは妊娠していたことがわかりました。マリーンさんは男の子を出産し、父親である男性と自分の名前から一文字ずつとった名前を息子につけました。
男性は最初、息子の誕生を喜び、フィリピンのマリーンさんの家を訪ねたり、出産費用や養育費の仕送りをしたりしていました。でも、それはだんだんと滞りがちになっていきました。そんなある日、マリーンさんのところへ知らないフィリピン人女性から電話がありました。女性は男性の新しい恋人だと名乗りました。寝耳に水の知らせでした。


そのころ、マリーンさん一家はマリーンさんが日本で稼いだお金で土地を買い、これから家を建てようとしていたところでした。家の建設費用には、父親から送られてくる養育費を当て込んでいましたが、その計画は白紙になりました。また、日本の生活にも馴染んでいたマリーンさんは、自分がしてきたような大変な生活は息子にはさせたくないという考えから、絶対に日本で息子を育てようと考えていました。けれども、このまま父親からの音信が途絶え、認知されることもなければ、日本に居住する権利さえ与えられません。


マリーンさんは、家計と息子の戸籍の問題を解消するため、再度、一人で日本へ働きに行くことを決めました。そのときのエージェントは、表向きはマリーンさんのような母子と日本人の父親との関係修復を支援しているNPOでした。


しかし、日本に来てみると、父親との関係改善どころか、前よりも辛い生活が待っていました。大阪の飲食店で働くことになりましたが、何十人ものフィリピン人女性がすしづめになった部屋で生活しなければならず、つねに日本人のボスが監視していて、まるで刑務所にいるようだったとマリーンさんはいいます。日本人のボスは気に入らないことがあれば、女性たちをすぐにトイレに閉じ込めました。
「そのときは、みんな泣いていたけど、私は強いから泣かなかったよ。ケイタイでゲームしていた」というマリーンさんですが、ついにある晩、寮からパジャマのまま抜け出し、電車に飛び乗って、フィリピン人の友達がいる町まで逃げたといいます。


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私が出会ったときのマリーンさんは、フィリピン人女性が立ち上げたNPOの助けを借りて生活を立て直し、息子が父親から認知されたあとでした。その後、8歳の誕生日の前に息子は日本国籍を取得しました。
そのとき、マリーンさんはいいました。「今はこの子のおかげで私も日本にいられるから、私も家族もみんな心の中で『ありがとうございます』と思っているよ。」


「これまでひどい目にあってきたのに、そこまで日本がいいの?」
という疑問が私のなかに浮かびましたが、そのときは率直に尋ねることができませんでした。
でも、その後、フィリピンでマリーンさんの実家を訪ねる機会がありました。(その4へ続く)


近くて遠い隣人・海外フィリピン人労働者(OFW)2
~フィリピンの子どもの夢~


いくらフィリピンのなかで仕事がないといっても、OFWは文化も習慣も違う国へ、ときには言葉も違う国へ、多くの場合は家族と離れて単身で出稼ぎに行くのです。よほどやむにやまれない状況で、悲痛な思いで国を出るのだろう…、と考えていました。ですが、実際にフィリピン人と話してみると、海外労働に対する考え方は案外ポジティブで、ごく自然な選択肢になっているように感じます。


日本で長く暮らしているフィリピン人女性に聞いたところ、「それは、フィリピン人はbahala na」(バハラ ナ)だと思っているからよ」といいます。
「bahala na」は、もとは、「Bahala na ang Diyos(バハーラ ナ アン ジョス)」。「神の思し召しのまま」にという言い回しで使われ、
(参照 フィリピン語タガログ語レッスンhttp://www.admars.co.jp/tgs/lesson00.htm)そこから転じて「何とかなるさ」という意味で、何かと日常会話に出てくる言葉です。
無鉄砲といえば無鉄砲、たくましいといえばたくましい考えといえるでしょう。


それに加え、メディアも大きく影響しているように思います。
新聞を開くと、魅力的なキャッチフレーズのついた派遣機関の広告や、海外労働を推進するような論調の記事が目につきます。


先日は世界展開している外資系の銀行が、大きな記事広告を出しOFWのサクセスストーリーを掲載していました。
かわいらしい女性がドバイでパティシエとして生き生きと働いている写真、ショッピングを楽しんでいる写真、家族を海外旅行に連れて行ったというエピソード。そんなバラ色の未来をイメージさせるような情報に、大きな紙面が割かれています。


OFWからの送金は、家族にとって貴重な収入源となりますが、こうした金融機関をはじめとする、一部の大企業にも経済効果をもたらします。
フィリピン経済をにぎっている人々にとっても、このままOFWが増え続けてくれたほうが好都合なのでしょう。


バハイ・トゥルヤンに暮らす子や近所のコミュニティの10代前半の子どもたちのなかにも、「将来の夢はオーストラリアで働くこと」「イギリスで教師として働きたい」と話す子がいます。その無邪気な様子に複雑な思いがします。(その3へ続く)


近くて遠い隣人・OFW(海外フィリピン人労働者)
~その1 出口の見えない貧困~


街角に貼られている就職フェアのポスター。)
ここにもoverseasの文字。(ラグーナ州)


1年半ほど前、2度目にフィリピンを訪ねたときでした。親しくなったフィリピン人とのなにげない会話のなかで「あなたの家の近くにフィリピン人はいる?」と聞かれたことがあります。
「いるよ」とだけ答えたものの、そのころ私は近くで暮らしているフィリピン人とほとんど話したこともありませんでした。正直に言えば、不法滞在のニュースなどを聞いたり、セクシーな服装で夜の街に立っている女性を見たりして、近寄りがたい感じを受けていました。
でも、そのとき、フィリピンにいる子どもに関心を寄せつつ、日本にいるフィリピン人のことを何も知らないでいることは、どこか負い目のように感じたのです。
帰国後、半ば自分への義務的にフィリピン人女性を支援しているNGOを訪ね、数人の女性たちと知り合いました。


特に親しくなった女性は、日本のマナーをしっかりと守り、近所の人や子どもの友達への気配りを忘れない人でした。「私がフィリピン人だから、子どもがいじめられたらかわいそう」。いつもそう言って仕事をがんばり、学校行事があると手のこんだお弁当をつくる彼女には多くのことを学びました。
彼女たちと会うことが楽しみになりながらも、なぜフィリピンから日本に来て、ここに住み続けているのか、という疑問は私のなかには残りました。日本は経済的には一応は豊かでも、外国人にとって居心地のいい場所とはいえません。彼女たち自身「日本には疲れた」と話すこともありました。


ですが、今フィリピンに住むようになってから、彼女たちを含めた海外フィリピン労働者・Overseas Filipino workers(以下OFW)の複雑な事情が何となく少しずつ見えてきたような気がしています。
以下、ごく私見的、不勉強な点もありますが、私自身の整理のためにOFWのことについて書きたいと思います。


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東南アジアの国というと、先進国の工場が多く進出しているイメージがあるかもしれません。けれども、フィリピンは政情不安、汚職、内戦といった、多くの問題を抱え、さらに電気、水道などのインフラも未整備の地域が多いことから、海外の企業が進出に二の足を踏む傾向があります。


2011年のフィリピンの就労人口の産業別内訳をみると、工業従事者は全体の約15%。もっとも大きな割合をしめているのは、サービス業(約50%)、農業(約30%)です。
サービス業の内訳には、販売や飲食店の接客、メイド、家財修理、タクシーやジプニー、トライシケルの運転手などが含まれます。これらはスキルを必要としない仕事とみなされ、重労働であっても低賃金で働かされています。自営業者であっても、多くの人が同じような商売をしているため、結果的に一人あたりの収入は低くなっています。
また、フィリピンの農業従事者は、ほとんどが自分の土地を持たない日雇い労働者。近年は、気候変動の影響も受け、不安定な雇用状況にあります。


2011年7月の国家統計局の統計では、フィリピンの失業率は7.1%。これは15~64歳までの、労働が可能で求職中にも関わらず、仕事がない人の割合です。これに加え、一応就業はしているものの、ほかの仕事も兼業しなければ生活が苦しい、部分失業者の比率が19.1%となっています。その結果、国民の3分の1が貧困ライン以下の生活を強いられています。


フィリピンはもともと美しい自然に恵まれ、レアメタルなどの資源も豊富な国です。自国のなかで豊かになれる可能性は十分あるように思いますし、現に少しずつGDPも伸びています。けれども、縁故社会、学歴社会であるフィリピンでは、一部の裕福な階層が恩恵を受け続け、困窮している人たちの大半は貧困のサイクルから抜け出せないのが現状です。


OFWは、マルコス大統領の独裁政権下にあった1970年代から大幅に増え始めたといわれています。1982年にフィリピン政府はPOEA(フィリピン海外雇用庁)を設置し、世界各国からの求人にこたえてきました。フィリピン人の労働力を必要としている国は、毎年、世界100か国以上にのぼります。


1995年に制定された「出稼ぎ労働者と海外フィリピン人に関する法律」のなかでは、国としてはあくまで経済成長を維持し、海外での雇用を推進するものではない。と表明していますが、その一方で、POEAは海外での雇用拡大をめざし、OFWに対して職業訓練、福利厚生の充実をはかってきました。その結果、OFWの送金総額は、GDPの約1割に相当するまでになっています。また、海外で生活しているフィリピン人は人口の約10%にあたります。ここには、OFWの扶養家族、相手国で失業状態にあるフィリピン人も含まれます。


今関わっているバハイ・トゥルヤンのスタッフも一人はドバイで、一人は台湾で働いたことがあります。日系の繊維会社につとめる大家さんの息子も、日本に出向したことがあり、近くのスーパーで働いているお兄さんは岐阜の電子関連の工場で働いていたと話していました。身近のところだけでも、OFW経験者が多いことに驚きます。 
(その2へ続く)

プロフィール

野口和恵

フリー編集者・ライター。児童書編集にたずさわるかたわら、国内外の子どもを取り巻く問題について取材。

著書に「日本とフィリピンを生きる子どもたちージャパニーズ・フィリピノ・チルドレン」(あけび書房)がある。


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