Archive for 10月, 2012

マグダレーナの死と残された夢と


9月29日、いつも通り日本語教室のボランティアに行ったマリガヤハウスで、ある訃報を聞いた。亡くなったのは、クライアントの一人で3人の子どものシングルマザー、まだ46歳だった。前日の夜、頭痛を訴えて横になっていたのが、翌朝にはもう冷たくなっていたのだという。その一週間前にはマリガヤハウスのワークショップに参加し、元気に体を動かしていた。


彼女は赤ん坊のとき、教会の脇に捨てられていた孤児だったという。小学校3年生まで施設で暮らしていたものの、窮屈な生活を嫌ってか、ほかの子どもたちと脱走。それからハウスメイドをしたり美容院の案内係をしたりして働き、生きてきた。


美容院で働いていた21歳のとき、お客だった日本人に誘われ、エンターテイナーとして日本に働きにきた。しかし、もともと孤児だった彼女には出生証明自体がなかったため、必然的に不法入国となった。日本にいるうちに、彼女は3人の子どもを産んだ。上の二人は、それぞれ別のベトナム人の男性との間に生まれた子。下の子は、日本人男性との間に生まれた女の子、ミキだ。ミキが三歳になるまで、母子はミキの父親と一緒に暮らしていたが、その父親との仲も悪化。2002年にフィリピンに渡航するという別の日本人男性について、子ども三人とフィリピンに帰ってきた。しかし帰国後、その男性はすぐに別のフィリピン人女性と暮らし出した。


頼れる親戚もなく教育もない彼女が、ひとりで生計をたてることは容易ではなかった。いつしか母と幼い子どもたちは、公営墓地に住み、墓石の上で寝起きした。そんなときに手を差し出したフィリピン人男性がいたが、彼はドラッグユーザーだった。彼女もドラッグに手を染めるようになった。子どもたちの状況を見るに見かねた人の通報によって、ミキと兄たちは保護され、児童養護施設に入った。


その後、ミキの父親が日本人であることを知っていた母親の友人が、日本の父親を探し出してミキの養育支援を依頼できないものかと、マリガヤハウスに相談にきたことから、マリガヤハウスと母子との関わりが始まった。最初のころ、突然マリガヤハウスを訪れた母は、ドラッグ中毒のため、まともに会話ができるような状況ではなかったという。


けれども彼女はもう一度子どもたちと暮らすため、これまでの自分の人生を反省し、ドラッグをやめて洗濯婦として働きはじめた。マリガヤハウスは子どもと暮らすのは、もう少し経済力がついてからとアドバイスをしていたが、子どもと離れ離れの暮らしに耐えかねたのだろう。彼女は施設から強引に子どもを引き取った。マリガヤハウスには「これからは家族で暮らしていく」という報告をしたきり、音信が途絶えたという。


数年後、彼女からふたたびマリガヤハウスに連絡があり、スタッフが訪問した家庭の生活状況は大変なものだった。彼女の洗濯婦としての稼ぎは1日200ペソ(約400円)、それだけで家族4人が食べていかなければならない。家はブタ小屋を改造した粗末な小屋を借り、お金がないときは食事を抜いていた。そんな生活のなかでも、子どもたちはきちんと学校に通っていた。母自身が無学で苦労してきたこと、勉強することの大切さを子どもたちに聞かせていたのかもしらない。そんな頑張りが認められ、ミキは奨学金の支援を受けるようになった。


私が彼女とミキに会ったのは、亡くなるつい2週間前のことだった。その日は、子どもの将来について親子で考えるというワークショップがあった。彼女はあっけらかんとした調子で「ごめんね、私、英語わからないの。小学3年生までしか学校に行っていないからさ。タガログ語と日本語しかわならない」と言った。


子どもの将来を考えるワークショップであったものの、ミキはおとなしかった。母はしゃべらないミキにかわって「この子は警察官になりたいのよ、日本のおじさんが警察官だったから。今でも写真を持っているよ」と、ときどきテンポのおかしな日本語でくりかえし言った。その横で、ミキは「先生」と「働いて親を助ける」という二つの夢をワークシートに書きこんだ。


彼女は「将来は子どもと日本に帰りたい」ということを何度も口にした。あちこちで、いろんなフィリピン人から同じことを聞いている私は「今は日本だってそんなに思っているほど良くないですよ」とお決まりのようにいった。「でも、仕事あるでしょう。日本だったら私だって、会社に入れたもの。卵からマヨネーズつくる工場ってあるでしょう。そこで働いていたの。フィリピンだと、もう洗濯するか掃除する仕事しかないよ。だって、私小学校3年生までしか出ていないもの」


そういわれると返事に詰まった。後から彼女の生い立ちのことを聞いて、自分が日本人の物差しだけで、彼女を測ろうとしていたように感じた。けれども、そんな私に不愉快な顔を見せるでもなく自分のことを正直に話してくれた彼女に感謝した。


先生、医者、アーティスト…。フィリピンの子どもたちだって、最初はみんな大きな夢を持つ。けれども、彼女はそんな夢をみること自体、小さなときにあきらめたのかもしれない。そして40代半ばになった今の、夢らしいものは、もう一度日本に行き、工場などで職を得て働くことだったのだ。


でも現実には、それすらも達成するのは難しい夢だった。彼女もミキも出生証明がなく、父親と連絡がとれたとしても、認知を得たり日本国籍を取得したりすることができない。証明書を得るにはお金がかかる。日々食べていくのがようやっとの今の生活では、証明書を取るお金をためることも容易ではなかった。


そんな厳しい現実を聞きつつ、親から養育放棄された子たちをふだん見ている私には、母に頭をなでられ、はにかみ笑ったミキの姿が微笑ましく写った。上の二人の息子についても、「お兄ちゃんたちは本当に頭がよくて、私の自慢」と彼女は語った。母を知らずに育った彼女が自分なりに精いっぱい役割を果たそうとし、母としての喜びも感じている。
「あなたにとって子どもはどんな存在ですか?」もっと親しくなって、そんなことを聞いてみたいと思っていた。


でも、それをたずねることはできなかった。
彼女の訃報を聞いた日、フィリピンの名曲、フレッディ・アギラの「マグダレーナ」を繰り返し聞いた。この曲のなかでマグダレーナとは、お金もなく教育もなく、愛にやぶれ、売春婦として働くしかなかった女性の名前だ。フレッディはマグダレーナのことをこんなふうに歌う。


君はあらゆる困難に耐えてきた

君の夢は貧しさから抜け出すこと

マグダレーナ、君はなんて不幸なんだ

いつになったら彼らは君を理解してくれるだろう

君はただ平穏に暮らせることを望んでいる

でも、世界はひどすぎる

いつまで君は待てばいいのだ?

いつまで我慢すればいいんだ?

君の祈りは、いつ届くんだ?


棺も墓地も購入する費用がなかったため、苦しそうな表情をした遺体は一週間以上の間、自宅に寝かされていたという。だが、近所の人たちが寄付を集めてくれたおかげで、何とか埋葬された。


マリガヤハウスは今後の子どもたちの支援方法を模索しているところだ。なんとか子どもたちには大学まで卒業してほしい。たとえ先生や医者になることはできなくても、少しでもたくさんの選択肢を得てほしいと考えている。


貧しさから抜け出して平穏に暮らしたいという、母親のささやかな夢は生前に報われなかったかもしれない。けれでも、きっと母は今も、自分とちがった人生を子どもたちが手にできるよう、天国から祈り続けているにちがいない。

※文中の子どもの名前は仮名

激論!ストリートチルドレンその3―
「私がバランガイオフィサーだったら」


フィリピン政府とNGOでは、支援内容には大きなギャップがある。でも、両者が敵対しあったところで、子どもたちにとってよいことはない。NGOとしては、できるところでは、政府ともっと連携したいと思っているのだ。


シンポジウムの最後に、NGOスタッフの一人として参加したシスターが社会福祉開発省(DSWD)のソーシャルワーカーにたずねた。「私たちの活動エリアには、本当に大変な状況の子が大勢いて…、自分たちだけでは力不足です。DSWDと連携したいのですが、DSWDの誰に連絡すれば、動いてくれますか?」静かな口調だったけど、いつも心につかえていることを切実に訴えているふうだった。


けれども…。DSWDのソーシャルワーカーは答えた。「こういうことは本来バランガイの仕事で、DSWDはそれをアドバイスする立場なんです。バランガイを巻き込むのが正当なやり方です」


フィリピンのバランガイは、日本でいうと町内会くらいの規模の地域のコミュニティ。けれど日本の町内会とちがい、行政としての権限を持っている。バランガイが小さな訴訟を扱ったり、条例を制定したりすることができるのだ。ソーシャルワーカーの言い分としては、1991年に施行された「地方政府法」で、ストリートチルドレン支援はバランガイの管轄になっているというのだ。


これはマルコス政権の後に誕生したコリー・アキノ政権下で決められた法律だ。独裁政権の反省のもとに地方分権化をすすめるという主旨であったというが、今となっては、この体制が政府の言い訳になっているように思えてならない。


バランガイには政府からの補助金は出ているものの、実際のところ、バランガイの予算の大半は寄付でまかなわれており、住民たちの生活レベル、外部とのコネクションがあるかどうかで、バランガイの予算規模は大きく異なる。また役員の手当ては安く、それだけでは生活を成り立たせることができないため(汚職がある場合は別として…)、ある程度生活に余裕のある人が、名誉職のつもりでバランガイ役員になっているのが実態のようだ。そのため、バランガイ役員にしてみれば、本業以外の仕事はできるだけ少ないに越したことはないというのが本音だろう。


これまで、いくつかのバランガイオフィスのヒアリング調査に同行したことがある。けれどもバランガイ役員のコメントと、あとで住民たちに聞いた話とではギャップがあり、バランガイ役員が子どもの現状について、実態を把握しているとはいいがたかった。「それはDSWDがやることですから」という言葉も何度も聞いた。


結局は責任の押しつけ合いか…と思う。こうして大人たちが涼しい屋内で話し合いをしている今だって、ちょっと外を見れば、炎天下のなか物売りをしているストリートチルドレンがたくさんいるのに。


そのなか、一年間路上で暮らした経験があり、今はバハイ・トゥルヤンのユース・エデュケーターとして路上の教育活動をしているダイアナの発言には力があった。「バランガイは、いつも私たちの話を聞こうとしません。子どものことなど重要ではないと思っているのです。私がバランガイのスタッフになったら、絶対にもっと良い状況をつくれます。私は自分が経験したことだから、何をすべきかがわかるのです」。


フィリピンの大統領にも日本の首相にも真似できない力強い発言だった。この日初めて、会場から拍手が上がった。


終了後、ダイアナにあなたのスピーチはすばらしかったというと、彼女は照れながら「だって私は自分が経験したことだもの。でも私はバハイ・トゥルヤンで働いているのが好きだから、バランガイオフィサーにはならないよ」という。
それは、うれしいような残念なような複雑な気分だ。


このシンポジウムの2回目は、今月開催予定だ。ストリートチルドレン、元ストリートチルドレンの声を多くの大人たちに伝え続けること。そうして相手の琴線が動いたとき、初めて少しずつ物事が動いていくのかもしれない。

激論!ストリートチルドレンその2―
「レスキュー」という危険にさらされる子ども

それにしても社会福祉開発省(DSWD)がプレゼンのなかで「ストリートチルドレン・ゼロ」という目標を強調していたのを聞いて、なんだか背筋が寒い思いになった。


フィリピン政府は、これまでもストリートチルドレンを助けるという目的で「レスキュー・オペレーション」なるものを展開している。表向きは、危険の多い路上にいるストリートチルドレンを安全な収容施設に保護するという名目だが、実態はレスキューとは程遠いものが行われている。


バハイ・トゥルヤンが2009年にまとめた調査リポート「Sagip or Huli?(救助それとも逮捕?)」によると、レスキューオぺレーションはおもに夜間行われている。ほとんどの場合、レスキューを実行する大人たちは、自分が何者であるかを子どもたちに知らせず、また子どもの名前も住んでいる場所も聞かずに、暴力で脅し車に乗せるのだという。眠っているところを突然たたき起こされ、車に乗せられたというケースもある。親に頼まれて買い物にいくとき、誘拐のように連れ去られたというケースもある。また連れ去られる際に、持っていたわずかなお金を取り上げられたり、持っていたものを壊されたという証言もある。



相手の大人が何もいわず、暴力をふるい車に乗せるため、子どもたちは恐怖におびえる。親たちは子どもが人身売買の犠牲になったのではないかと心配する。


また収容されている施設の環境は劣悪だ。つい先日、図らずもその施設を目にした。場所はマニラ首都圏のなかでも整然とした環境のマリキナ市。トヨタの大きな支店があり、トヨタアベニューという名前のついた通り沿いに、運動公園やプール、オートレース場などのレクリエーション施設があるのだが、オートレース場の向かい側に、檻の張られた建物があった。


前を通り過ぎると、檻のなかでは上半身裸の男の子たちがすし詰めになっていて、檻の前を通り過ぎる人に向かい、何か訴えるような目で手を伸ばしている。通りから丸見えになっているのでまるで動物園のようだ。いや、動物園の檻のなかにいる動物のほうが、もっとずっと快適な環境にいるだろう。


檻と檻の間にあるサインボードには「話しかけないでください マリキナ市社会福祉局」と書いてあった。何とか檻の外から食べ物をもらえないかと、したたかに考えていそうな子もいれば、ドラッグユーザーなのか、自分の状況に絶望しているのか目がうつろな子もいた。一緒にいた日本の学生たちは、その異様な雰囲気を怖がり、みんな足早に通り過ぎた。


前述の「Sagip or Huli?」のなかの証言によると、施設で与えられる食べ物は十分ではなく、取り合いのけんかもよく起きているという。シャワーを浴びることができたという回答は全体の3割にとどまっており、トイレがなく垂れ流しになっていた施設もあるという。そのために皮膚炎やほかの病気を患った子もいるようだが、施設側が医療サービスを提供していたという回答も3割程度にすぎない。


また、これらの施設内では遊びの機会がなく教育活動もほとんど行われていない。ストリートチルドレンのなかにも学校に行っている子はいるのだが、レスキューによって学校に通えず、勉強が遅れてしまったという現状もある。スタッフによる虐待、女子の場合には性的虐待を受けたという証言もある。


子どもがこの収容施設から出るには、保護者が迎えにいく必要がある。しかし、出してもらうには出生証明書や身分証明書を持参したり、現金を払ったりしなければならない。路上で商売をしている家族にとっては、数日分の稼ぎにあたるくらいの大金だ。親が迎えに来られない子どものなかには自力で脱走している子もいる。


いったい誰のためのレスキュー・オペレーションなのか。バハイ・トゥルヤンをはじめとするNGOは、ここ数年、政府に改善を求め、レスキュー・オペレーションの一時停止を要求している。しかし政府はこれまでのところ聞く耳持たず、レスキューの被害になる子どもが後を絶たない。


関連動画
Running from Rescue

(続く)

プロフィール

野口和恵

フリー編集者・ライター。児童書編集にたずさわるかたわら、国内外の子どもを取り巻く問題について取材。

著書に「日本とフィリピンを生きる子どもたちージャパニーズ・フィリピノ・チルドレン」(あけび書房)がある。


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