映画紹介「まなぶ―通信制中学60年の空白を超えて」



「月明りの下で―ある定時制高校の記憶」の監督である太田直子さんの新作が完成した。


太田さんと出会ったのは7年前。在日フィリピン人女性を支援する太田さんの活動を知り、
自宅の隣駅にある団体の活動拠点をたずねた。話していくうちに、テレビで見て、強く記憶に残っていた定時制高校のドキュメンタリーを撮った方でもあると知って驚いた。その後も、太田さんとはいろんな場面で活動範囲が重なるところがあり、そのエネルギッシュな活躍をいつも頼もしく見ている。


さて、新作。「まなぶ―通信制中学60年の空白を超えて」


この映画の舞台である通信制中学は戦後の混乱期に義務教育を受けることができなかった人の学びなおしの場として、昭和23年に全国の中学や高校のなかに設置された学校だ。時代の移り変わりとともに数はへり、今は大阪府天王寺市立天王寺中学校と今回の映画に登場する、神田一橋中学校のみになっている。このうち、全教科を履修でき卒業証書を出しているのは神田一橋中学校ただ一つだ。


現在学んでいるのは、70代に入り人生の終盤を迎えた人々。少年少女時代に奉公に出されるなどして、教育の機会を失ってしまったのだ。
どの人も学校を離れてから60年間、それぞれ必死で生きてきた。ひたすら働き、家庭を築き、子どもを育て上げてきた。長い人生経験を重ねた人たちが、今どんな気持ちで中学校の勉強に取り組むのか。はじめは想像がつかなかった。


教育の機会に恵まれなくても、戦後の混乱期をくぐりぬけてきた70代の生徒は、生きる知恵や力を十分に持っているにちがいない。それなのになぜ人生の終盤に差しかかった今、わざわざ中学に通い、娘や息子のような先生から学ぶのだろうか。そんな疑問を持った。


けれども映し出される生徒たちの表情は驚きと喜び、生気に満ちている。見ているこちらまでわくわくして「学ぶってとってもおもしろいことかもしれない」と理屈抜きに思えてくるのだ。言葉を知ることで広がる世界。人生のなかで体験したこと、知りえたことと、教科書の記述がつながったときの興奮。


同時に自分の子ども時代をはたとふりかえり、こんな表情で授業を受けていたのは、いつまでだっただろうかと思う。学年が上がるにつれて学ぶことは評価のためであり、世渡りのツールとして、とらえるようになっていた。高校のころになると、勉強は「周りに置いて行かれないように、しなければならないもの」であった。


けれども、老齢の生徒は学びたいという一心であり、教師たちはそんな生徒に敬意を持ち、ときに生徒の経験から教わりながら授業をしているのが伝わってきた。


ある生徒は無邪気な子どものような笑みを浮かべていう。
「学ぶことは楽しいですよ。知らないことだらけですもん。知らないことだらけってことに今まで気づかずにきたんですよ。70すぎまで。」


「学びたい」という欲求はもともと人間の本能なのではないか。そのことをこの映画から発見した。


卒業式の日、男性の生徒が何度も何度も書き直した答辞を読みあげる。学校に通わせてもらえなかった子ども時代から、通信制中学に出会い、卒業するまでのこと。武骨だが、男性の体の芯から出るまっすぐな言葉が胸を打つ。


新宿K’s cinemaにて3/25日から公開予定

在日フィリピン人のためのWEBサイトをつくりたい!
あるジャパニーズ・フィリピノ・チルドレンの挑戦


日本にいるフィリピン人コミュニティのためのWEBサイトhttp://juaninjapan.com/contribute/をつくる。
マニラで日本とフィリピンの血をひく男性“ノリ”が準備をすすめている。


ノリはマニラでウェブサイト運営や商業デザインを中心とする会社を経営している。社員は数名だが、20代という若さで成功をおさめた実業家なのだ。


ノリはジャパニーズ・フィリピノ・チルドレンだ。
ノリの母親はマニラの貧困層の出身であり、若いときに日本に出稼ぎに渡った。そこで知り合った日本人男性との間にもうけた子どもがノリだった。


母がフィリピンで一時帰国した際にノリは生まれた。以来、ノリは祖母に育てられた。母は日本へ戻って働き送金をつづけていたが、日本人の父親については語られることはなく、消息もわからなかった。「父親のことを知りたい」そんな思いを抱えたまま、大人になった。


ノリのように日本人の父親から養育放棄されたジャパニーズ・フィリピノ・チルドレン(以下JFC)は、在比ケース、在日ケースあわせて10万とも20万ともいわれている。日本がバブルに湧き、あちこちにフィリピンパブが林立していた1980年代以降、日本に出稼ぎにきたフィリピン人女性と日本人の男性の間に生まれる子が増えたことが背景にある。フィリピン国内にも日本人男性を相手とした歓楽街が広がり、そこでも男女の出会いがあった。結婚し幸せな家庭を築いたケースもあるが、父親のことを一切知らないまま大人になったJFCが、日本から見えないところで生きているのも事実である。


こうしたJFCを支援する団体が、フィリピン国内にいくつかある。大人になったノリはこれらの団体をたずね、同じような思いを経験してきた青年たちと交流を重ねてきた。ノリはときどき自宅をかねたオフィスにJFCの友人をよび、自分たちの課題について話しあい、きずなを深めるためのパーティを開いている。


ノリ自身も会社を立ち上げるまで、生活面でも精神面でも大変な苦労があった。しかし、ノリは交流をとおして、JFCのなかにはもっと過酷な人生をたどってきた者がいることを知った。小学校さえも卒業できなかった者もいたし、フィリピン人の実母にも捨てられ、路上で生きてきたという者もいた。


そんなJFCたちも機会に恵まれれば、力を発揮し、よい仕事につけるのではないかとノリは感じた。そこでノリは自分の会社のなかで同胞の職業訓練と雇用の機会をつくった。しかし始めてみると、ノリは彼らとの接し方に悩んだ。成長の過程でさまざまな機会が欠落してきた彼らには、仕事の前に簡単な規則を守ってもらうことも難しかった。それを理解する専門性のある人間でなければ、彼らの教育はむずかしいと気づいた。会社の仕事も立ち行かなくなるおそれがあったため、ノリは彼らと長く話し合った末、別の簡単な仕事につくことをすすめた。


ノリは今でも彼らのポテンシャルを信じている。ただそれを生かすには適切な訓練と指導を受けて、規律を持つことが必要なのだと語った。


今年7月、ノリは日本に行くチャンスを得た。日本の支援団体らから、スピーカーとして招待を受けたのだ。これは「移住者と連帯するネットワーク」がトヨタ財団の助成を受けておこなった「安全な移動と定住」プロジェクトの一環だった。
現在、日本は技能実習制度をはじめ、さまざまな形で外国人労働者を呼びこみ、介護や製造業での人手不足解消、コスト削減をはかろうとしている。
日本人の父親から生まれたJFCは、父親からの認知があれば在留資格をとりやすく、なかには日本国籍を取得しているものもいる。外国人労働者を日本の企業に仲介するエージェントはこれに着目し、フィリピンで積極的なリクルート活動をおこなっている現状がある。「日本に行ってお父さんに会いたい」といったJFCの気持ちを利用し、「日本で働けば父親さがしを手伝ってあげる」とだまして劣悪な労働環境に送りこむエージェントも存在する。
こうした現状を調査し日比でアドボカシー活動をおこなうことによって、被害の拡大を防ぐのがこのプロジェクトの目的だ。
 



ノリはまだ見ぬ父親の国を訪れ、自分の生い立ちを赤裸々に語った。会場には聞きながら涙を流す人の姿がめだった。
この旅を通して、ノリは実際に日本で搾取されてきたフィリピン人女性たちに会い、労働の現場を見学した。また、日本の貧困問題に取り組む人々にも会い、日本の社会のなかにも格差が広がっていることを知った。


フィリピン人女性やJFCが日本の社会の現状や法律を知らないために、安価な労働力として利用され、疲弊している。そう感じたノリは、フィリピン人が自分たちの権利についてさまざまな情報を得られるリソースが必要だと感じた。
冒頭に紹介したウェブサイトは、彼がこの経験から企画したものだ。


現在は試作ページのみだが、今後、日本語と英語での情報発信をしていきたいと考えている。現在、このウェブサイトの制作に協力してくれるライターや翻訳者を募集中だ。また運営資金を出してくれる広告主もさがしている。


興味のある方は、ぜひhello@juaninjapan.comからお問い合わせください。

Where are you from?


約1年ぶりにフィリピンに滞在中です。
定宿のドミトリーについて、まずバハイ・トゥルヤンに向かいながら、マラテ周辺を散策。 


スペイン、アメリカの統治下にあって、華僑も多いフィリピンでは、人の顔だちもさまざまです。
なので、私も現地に溶け込んだ服装をして、タガログ語を話していると、フィリピン人だと思われることがよくあります。もしくは、「コリアーノ?」、次に「チャイニーズ?」とよく聞かれます。ほかにも「ベトナム人?」「タイ人?」と聞かれたことも。(なぜか最初から『日本人』と充てられることはほとんどありません)でも、聞くほうにとっては会話のきっかけにすぎなくて、最終的に日本人と判明したからどうなるということでもありません。ふざけて、韓国人やフィリピン人のふりをすると、それはそれで通るので「国籍ってなんだろう?」と思います。


日本人の父親、フィリピン人の母親の間に生まれたジャパニーズ・フィリピノ・チルドレンで、日本の英会話スクールで働く男性は「先生は何人なのですか?」と聞かれるのがたまらなく嫌だといいます。結婚した両親のもとに生まれた彼は法律上、生まれたときは日本国籍を持っている日本人でした。けれども、フィリピン生まれの彼は、諸般の事情で、生後3か月以内に求められている届け出を両親が行えなかったことから、日本国籍を喪失してしまいました。詳細は拙著「日本とフィリピンを生きる子どもたち」に書かせていただきました。
自分の責任ではないところで、なかったことにされてしまった日本国籍。彼は生徒から質問されるたびにそれを思い知らされています。


「国籍っていうものがきらい。みんな同じ人間でしょ」。ある席で涙ながらそう話した女の子もジャパニーズ・フィリピノ・チルドレンでした。フィリピンにルーツがあるということを理由に、初対面の人からも嫌な言葉を浴びせられた経験もあったといいます。


またあるジャパニーズ・フィリピノ・チルドレンはこう語ります。「日本とフィリピン、どちらのアイデンティティも大切にしたいけれど、二つの国に同時に住むことはできません。二つの国の間に生まれた僕たちは、いつも選択を迫られています。それがとっても苦しいんです」


現在、日本に暮らす人々の100人に1人が外国籍で、生まれてくる子どもの30人に1人は、両親のどちらか、あるいは両親とも外国人です。さらに法務省によると平成18年の時点で、100人に1人の子どもが生まれたときに重国籍だといいます。急速に多民族化が進む現在、口にはできなくても彼らのような思いを抱えている人が大勢いるはずです。

金子みすゞとJULA出版局と私

写真提供・金子みすゞ著作保存会


高校生のときに、ある読書感想文コンクールに応募したことがある。入賞を逃して悔しさ半分で、優秀作品が掲載された文集を開いたのだが、そのうちのひとつに強く心を動かされた。それは、金子みすゞの詩について書かれた感想文だった。


「つもった雪」


上の雪
さむかろな。
つめたい月がさしていて。


下の雪
重かろな。
何百人ものせていて。


中の雪
さみしかろな。
空も地面(じべた)もみえないで。


金子みすゞ童謡集『わたしと小鳥とすずと』(JULA出版局)より


この詩を取り上げた子は、「つもった雪」を子どもの集団としてとらえ、次のように、感想をつづっていた。
上の雪は、いわゆる優等生。成績がよかったり、リーダー的な存在であったりする子ども。教師からの過度な期待をかけられたり、他の子どもからねたまれたり、孤独な悩みをもつ子も多い。
下の雪は、勉強も運動も苦手な、いわゆる落ちこぼれ層の子。自分は何をやってもダメという無力感を抱きやすい。


そして中の雪は、特別に成績がよいわけでもなく、落ちこぼれでもない普通の子。過度なプレッシャーにさらされることもなく、学校生活のなかでつまずくこともない。けれど、その分、大人たちから目をかけてもらえることは少ない。上の雪や、下の雪の苦しみについて想像するのは、さほど難しくないかもしれないけれど、中の雪にまで思いを寄せることはなかなかできない。それをこれだけ短い言葉で表してしまうのが、金子みすゞなのだ。

 
このときに初めて金子みすゞの詩にふれた私は、それから夢中になって、全ての作品を読んだ。みすゞの故郷の仙崎にも訪ねていくほど、熱狂的なみすゞファンとなった。今では国語の教科書にも作品が掲載され、「みんな ちがって みんないい」というフレーズが、とりわけ有名になった。けれど、ほかのどの作品も、やさしさと新鮮な驚きに満ちている。
 若くして不幸な最後を遂げ、世間から忘れられていたこの童謡詩人の作品に光を当て、この世に送り出したのが、ほかでもないJULA出版局の大村祐子さんだった。その数年後、ずっと知りたかったストリートチルドレンについて書かれている本を見つけ、それがJULA出版局から出版されたものであること、「ストリートチルドレンを考える会」の窓口となってくださっていることを知ったときは、驚いた。


けれど、ジャンルのちがいはあれども、小さなもの、声を聞き取られることのないものの立場に身を置いたみすゞの詩と、あらゆる権利を否定されてきたストリートチルドレンのルポは、根底で一貫した太い水脈につながっていたのだと思う。
その思いをあらためて感じたのは、JULA出版局の皆さんと、昨年、安保法案への抗議活動でご一緒させていただいたときだった。連日の抗議活動に、私たちが行かれないときも、JULAのみなさんは足しげく通っていらした。


「ストリートチルドレンを考える会」では、去る4/9日にJULA出版局社長の大村祐子さんをお招きし、JULA出版局の本づくりにかける思いを話していただいた。
絵本は戦争のない世の中をつくるために生まれたこと、子どもが幸せに生きるためのものだ、という大村祐子さんのお話をお聞きし、JULA出版局の仕事が平和への願いそのものであることを感じた。


私自身も出版社の下請けとして、児童書の制作にかかわってきているが、利益を見込めるものや、教師や親の好みを優先した本が多くなっているのが現状である。子どもが経済活動の一部として見られている感も否めない。
そのなかで、信念をもって、本作りをすすめてきたJULA出版局の仕事には、会のメンバーとしても、ライターとしても、もっともっと学ぶところがあると感じている。
JULA出版局の皆さん、ぜひ、これからも末永いおつきあいをお願いいたします。

「ストリートチルドレンを考える会通信 Vuela! No.256」より転載

イベント紹介 私たちは『買われた』展


あくまで自分のできる範囲でだが、これまでストリートチルドレンや居場所のない日本の子どもの支援の現場に通ってきた。右も左もわからなかった学生時代から見れば、年を重ねるにつれて、多少なりともできることは増えてきた。逆境のなかでも、必死に生きて成長していく子どもの姿に立ち会うと、活動の意義を確認することができる。けれども、ぐるりと回って外を向くと、依然としててっぺんの見えない壁があるのを感じる。


社会からはじき出された子どもたちに対して、外からはこんな声を聞く。
「何をしでかすかわからない子たちでしょう」「周りのせいにばかりするけど、自分たちが悪い、自業自得」。
こうした発言をするのは、とくに冷酷な人間ではなく、むしろ普通の人が多いと思う。ただ、子どもたちと出会うことがなかったために、表層的な部分を見て自分の物差しではかるのだと思う。伝えること、知らせることの重要性を支援者の立場からも痛感する。


子どもに限らず、野宿者など何かしらの困難を抱えた人の支援にかかわってきた人は、だれしも同じような思いを抱くことがあるだろう。支援する相手への思いが深ければ深いほど、世間の認識とのズレは苦しいものになる。


居場所のない少女たちの支援をし、ともに活動しているColaboの仁藤夢乃さんは、自らも渋谷をさまよう女子高生だった経験から、高校や大学でJKビジネスの被害にあう少女たちについて知ってもらおうと授業をしてきた。家族が崩壊し、頼れる人もなく、居場所もなく、お腹をすかせて街を歩く少女たち。それが仁藤さんが会ってきた少女たちだ。少女たちは優しい声をかけてくれた男性がすすめるアルバイトをはじめ、気づいたときには商売の道具にされている。


ある大学の授業で、仁藤さんが「売春をする中高生についてどう思うか?」とたずねたとき、次のような答えが返ってきたという。「その場限りの考え」「遊ぶお金がほしいから」「自分も街で買春をもちかけられたことがあるけど、断った。だから、やる人はやりたくてやっているんだと思う」「そんな友達はいなかったから、わからない」「正直、そんな人と関わりたくない」「どうしてそこまでやれるのか、理解できない」。
そのとき、スピーカーの一人としてその場に来ていた当事者の少女は、「そんなもんだよ、世の中の理解なんて。もう、そんなことでは傷つけなくなった」と仁藤さんに言ったあと、自分の体験を語りはじめたという。すると、多くの学生が自分の持つ極端なイメージや偏見に気づいてくれた。


この経験から、仁藤さんとColaboに集まる少女たちのグループ「Tsubomi」は、少女たちによる企画展を計画した。それが「私たちは『買われた』展」だ。
目的は中高生世代を中心とする当事者たちが声を上げることで、児童買春の現実を伝えること。これまで表に出ることができなかった少女たちの声を伝えることで世の中の持つ「売春」のイメージを変えること、すべての女性に勇気を与えることだ。企画展の名前も少女たちが考えた。それぞれの現実や日常を表す写真、「大人に伝えたいこと」をテーマにしたメッセージ、参加メンバーのアート作品や日記などが公開される予定だ。
 前例のない勇気のある取り組みについて、少女たちは強い決意を口にしている。


「行くところがないとき、声をかけてくるのは男の人だけ。体目的の男の人しか自分に関心をもたなかったし、頼れるのはその人たちだけだった。他にご飯を食べさせてくれる人も、泊めてくれる人もいなかった。同じ想いをする子を減らしたい」(17歳)


「“普通はしないことだから、する奴は異常”みたいなイメージがあって、違うのになって思う。それぞれに理由があって、単にさみしいとか、遊ぶ金がほしいとか、
そういう簡単な理由じゃないことを知ってもらいたい」(16歳)


「親も頼れる大人もいない、ひとりで生きていくしかないと思ってた。最近一人暮らしを始めるまで、家っていう感覚がなかった。今でも、そういう小中学生はたくさんいると思うし、そういう子たちが体を差し出す代わりにおにぎりをもらったりしていることを、Colaboに来る年下の子たちをみて思う。だから私もこの企画に参加して、伝えたい」(20歳)


そのほかの少女たちのメッセージは、下記のイベントページから見ることができる。

https://www.facebook.com/events/569716099875649/permalink/628237390690186/


「私たちは『買われた』」展は、2016年8月11日~21日 神楽坂セッションハウス2Fで開催される。この現実をたくさんの人に知ってほしいと思う。展示品を通して、赤裸々な少女たちの声を聞いてほしいと思う、必死に生きている姿を見てほしいと思う。

ドゥテルテ新大統領 フィリピン国民の評価は?-その2


ドゥテルテ氏は当選後、次のような計画を語っている。
・深夜の酒類販売
・外での飲酒禁止
・住宅地での夜のカラオケ禁止
・未成年の夜間外出禁止
・死刑制度の復活
・犯罪組織の関係者や逮捕に抵抗する容疑者の射殺を許可
・麻薬の密売人の殺害奨励(一般市民でも密売人を殺したら報奨金を与える)


秩序を重んじるのは良いことであり、ダバオ市の治安が良くなったのも、ドゥテルテ氏の剛腕ぶりの成果かもしれない。しかし、「犯罪者であれば殺してしまえばよい」というスタンスは、政治家として短絡的すぎないだろうか。人権団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」は、2015年のリポートのなかで、ドゥテルテ氏のことを「処刑部隊市長」と呼んでいる。


ストリートチルドレンの支援にわずかでも関わった立場から気がかりなのは、フィリピン全土に18歳以下の子どもの夜間外出禁止令を出すという計画だ。午後10時~午前5時まで子どもが路上を歩いていた場合、その親を逮捕するという。


ドュテルテ氏が市長をつとめてきたダバオ市では、夜間外出禁止令を実行し、青少年の夜間の外出が劇的に減ったという経緯があり、子どもを犯罪や非行化から守るのに有効だと評価されているようだ。


夜間外出禁止令はこれまでダバオ市に限らず、マニラ首都圏でもバランガイという行政区単位で実施してきたところもあった。しかし、この条例の被害者になった子どもたちもいる。


マニラ首都圏には親子ともども路上で暮らしている子が数えきれないほどいる。親には十分な収入がないため、その子どもたちは夜間でも、花を売ったり、物乞いをしたりして、お金を稼ぐ。家がない、あるいは家があっても寝る場所もないほど、窮屈なために、路上で寝起きしている子どもたちもいる。
マニラ首都圏では、行政がこうした子どもたちを“保護”という目的で収容施設に連れていく“レスキューオペレーション”がおこなわれている。このレスキューというのは名ばかりで、路上にいる子どもを見つけると、有無を言わさず、ときには暴力で脅しながらワゴン車にのせて、収容施設に入れていくのが実態だ。親のいる子も、断りなしに連れていくのだから、まるで誘拐である。連れていかれた先の施設はまともな食事を与えられず、不衛生で暴力沙汰もたびたび起こる。


くわしくは、NGOバハイ・トゥルヤンが行った調査であきらかになっている。
◆あるフェイスブック投稿が伝えたマニラの児童福祉
http://child-to-child.com/420.html
◆激論!ストリートチルドレンその2― 「レスキュー」という危険にさらされる子ども
http://child-to-child.com/332.html


レスキューオペレーションの実態を見れば、行政は子どもの保護や更生を目的としているのではなく、厄介者をとりのぞきたい、もしくは懲らしめたいがためにやっているように見える。
レスキューオペレーションは、深夜12~3時に行われることがもっとも多く、寝ていた子どもを連れ去ることも多い。NGOは子どもたちに恐怖しか与えないレスキューオペレーションをなぜおこなうのか、という批判をたびたびしているが、夜間外出禁止令を破っていたからというのが行政側の一つの反論になっている。


ドゥテルテ氏の計画では、懲罰対象は子どもの親である。しかし、子どもたちが深夜、路上にいるのは、単に親のしつけがないからではない。なかには日本と同様、親から虐待を受けて路上に出た子もいるが、多くの場合は親子の関係は良好で、まっとうな施設に入るチャンスがあっても、路上で親と一緒に暮らすことを選ぶ子もいる。そうした子どもたちの親を収監し、親子を引き離すことに、どんな意味があるのだろうか。また親がいない間、子どもたちをだれがどのように支援するのか。


バハイ・トゥルヤンは、先日、ドゥテルテ氏の計画を強く批難する声明を出した。次の主張に共感する。


「貧しい人々を犯罪者として扱うドゥテルテ氏の計画は、貧困を固定化するだけであり、問題のうわづみの部分しか見ていません」


しかし、バハイ・トゥルヤンのフェイスブックには、すぐにこの声明に反論するようなコメントが書き込まれた。「夜間外出禁止令に反対するのは無責任な親だけだろう」という。


ネット上ではなく、実際に質問してみるとどんな答えが返ってくるだろう。私は、英会話レッスンのフィリピン人講師たちに、夜間外出禁止令について、どう思うかたずねてみた。


この計画自体は、みな即座に「支持する」と答えた。実際にインターネットカフェに夜遅くまでたむろっている子どもたちは多く、犯罪に巻き込まれやすいし、厳しい決まりがあったほうが若いうちの妊娠も防げるという。
ストリートチルドレンの例をとりあげて聞くと反応は分かれた。「それば別の問題として扱う必要がありますね。子どもたちを保護する施設をつくればいいよね」という人。「それは特別なケースです。そこに焦点化して議論するのはフェアではないですよ」という人。


「親が悪いんですよ。無責任な親は裁かれるべき」。ハイテンションな声でそう断言したのは、明るく丁寧な授業をする人気講師の女子学生だ。


これについて私はたどたどしい英語で、少し反論してみた。伝わったかわからないが、言いたかったのは、次のようなことだ。


「親たちも、もともとストリートチルドレンだった人や教育も受けられなかった人たちです。それで今はきちんとした仕事がない、家がない。親も被害者だと思いますが、それでも逮捕されなければならないと思いますか?」


「私はそういう人たち好きじゃないんです。まず子どもを産むのが無責任です。育てられないなら、子どもを産まなきゃいい。育てられないのに、あの人たちは10人も子どもをつくるんですよ!」
「でも、カトリックは避妊も中絶も禁止していますよね。路上の親だから極端に子どもが多いということはないと思いますが」。
「あの人たちの場合は、信仰心があってそうしているとは思えません」


フィリピンで公私ともにNGOワーカーや、当事者とばかり接してきた私には、なかなか聞くことのない、ぶっちゃけった意見であった。フィリピンという国が階級社会であり、当然といえば当然ながら、その間に分断が生じていることを実感したのだった。


いわずもがな、ドゥテルテ氏はフィリピン国民が選んだ大統領だ。変化をもたらしてくれる強いリーダーを国民が望んでいる。


だけど、私がふと顔を思いだすフィリピン国民のなかには、ドラッグユーザーだった女性や盗みを働いた男の子がいる。括ってしまえば、ドゥテルテ氏やそれを支持する人々には、許しがたい犯罪者かもしれない。
けれど、短い時間だけれど、いっしょに過ごした彼らは決して頭からつま先まで悪いやつだったわけではない。古いリュックひとつで現れた見ず知らずの外国人にも親切な人だった。決して殺されてもいい人ではなかったと思う。

ドゥテルテ新大統領 フィリピン国民の評価は?-その1


四十の手習いよろしく、いまだ英語が流暢に話せない私は、オンラインで英会話レッスンを受けている。講師はフィリピン人。


フィリピンの英語はネイティブとちがうのでは? という指摘もあるけれど、フィリピンになじみのある私にとっては、むしろリラックスして話すことができるからいい。そして何より、いろんな講師とフィリピンのトピックについて話せるのがうれしいところ。
講師は名門大学の学生や社会人で、専門分野はさまざま。私にとっては、フィリピンであまり交流のなかった層の意見を聞くことができる機会にもなっている。


さて、ここ数か月はレッスンの時間を利用して、フィリピンの大統領選挙と当初から有力候補とされていたドゥテルテ氏について、どう思うか聞いてきた。日本ではアジアのトランプ氏と報じられているドゥテルテ氏だが、3月ごろから10人ほどの講師に意見を聞いてきたところ、半数がはっきりとドゥテルテ氏を支持しているといい、応援活動に参加している人もいた。


ドゥテルテ氏が市長をつとめてきたダバオ市在住の講師と話すことがたまたま多かったせいかもしれない。だが、ダバオ市はドゥテルテ氏のおかげで安全な都市になったと定評があること(その裏では私設の処刑団を使って超法規的に犯罪者を処刑してきたのだけど)、当選すればミンダナオ島出身の最初の大統領になること、ダメなものはダメという強い姿勢から「この人こそフィリピンを変えてくれるのではないか」という期待が高まっていたことが人気の秘密だったように思う。


セブ市の男性講師は「ドゥテルテが大統領になったらシンガポールみたいに秩序のある国になるんじゃないでしょうか。今度フィリピンに来るときは、きっとちがったフィリピンが見れますよ」と絶賛。


選挙期間中から、ドゥテルテ氏の演説は暴言、差別的発言も目立ったが、これについても、ダバオ市民の講師は「あの演説は彼のスタイルなので、心配しなくてもだいじょうぶ。ドゥテルテは本当はとてもやさしい人だから」という評価。


そうか。たしかにダバオは過ごしやすい都市だったし、フィリピン国民がそこまでいうなら…、と途中までは私もドゥテルテ氏への期待も持って日本から眺めていた大統領選挙だったが、彼の当選後、じょじょに期待よりも不安をおぼえるようになっている。(続く)

震災から5年後の東北~その2


東北の旅では、宮城県気仙沼大島で2泊した。


お世話になったのは小山さんご夫妻がきりもりするいわさき荘


大島で養殖業と民宿を営んでいた小山さんご夫妻は、津波で宿を流された。
友人やお客さんたちから応援され、民宿を再開したのは昨年のことだ。


以前の「いわさき荘」の跡地。セメントで地固めされていた松の木だけが残った。


東日本大震災のときの津波によって、大島では31人が亡くなった。小山さんご夫妻は、車で逃げて小学校に避難した。
避難先では余震にびくびくしながら一枚の毛布に数人でしがみついて、過ごしていたという。外との連絡手段もなく、しばらくは小山さんたちも行方不明者として数えられていた。


対岸にある気仙沼市の石油コンビナートでは火災が発生し、大島にも火の手が回った。一時は島民全員が島から引き上げることも検討されたという。一週間は支援物資も届かず、学校のプールの水まで飲んでしのいだほどだった。


その年の5月、小山さんたちはがすぐに海底の掃除にとりかかった。養殖業を再開するには油を回収し、海をきれいにしなければならない。
「俺たちは海に賭けてるんだ」。
小山さんの力強い言葉が耳に残っている。


そんな小山さんがとってきてくださった海の幸たっぷりの食事。


わかめのしゃぶしゃぶ。ホタテ、ほや、ウニ、カニ、しらすの和え物などなど…。


リーズナブルな宿代では申し訳ないくらいのぜいたくな、まさに「海の幸」づくし!


小山さんの宿では、震災前、中学生の宿泊学習をたびたび受け入れていた。なかにはいわゆる、グレている子もいた。話をしていると、片親であるなど家庭の事情が複雑な子も少なくなかった。小さいときにお父さんが戦死していた小山さんは、そんな子たちの気持ちがよく理解できたのかもしれない。漁業体験や、大島の自然とのふれあいを通して、子どもたちは変わっていった。震災のあとは、リーダー格の子が中心となって寄付を集めてくれた。


大島の浜は、日本有数のきれいな浜辺として知られている。自殺を考えてこの島に来た人が、景色があまりにきれいなので思いとどまったこともあったという。



東北の被災地で建設が進められている防潮堤に対して大島では反対し、建設が中止されたところもある。この旅の間、防潮堤に反対する声は、ほかの浜でも聞いた。自分たちは海と一緒に暮らしてきた、海が見えないとかえって不安だ、という。


長い間、海が生活の一部であった人たちにとって、自然の脅威にコンクリートで対抗するという考えは、受け入れがたいもののようだ。


また、原発事故の影響によって、名産品であるホヤが売れずに痛手をこうむっているという。海はつながっている。原発はいらないというのが、漁師に共通する意見だろう。


かつて皇室にも献上されたという大島のホヤは、絶品だった。


最終日の朝食には、小山さんが夜明け前にとってきたホタテのお吸い物をいただいた。


「よそから来た人を大切にするのは大島の文化」。この島で生まれ育ってきたお年寄りはそう語る。


ぜひ、大島のおもてなしを、たくさんの人に味わってほしいと思う。

震災から5年後の東北


5月の連休は東北に出かけた。


映画「遺言〜原発さえなければ」の宣伝ボランティアで知り合った須賀さんのお誘い。
東京で会社員をしている須賀さんは震災後、チームあすなろという復興支援チームのリーダーとして、学生や海外からの留学生も率いて、毎月欠かすことなく東北の応援に出かけている。


車を出していただいたおかげで、運転のできない私がなかなか行かれずにいた場所をたくさん回ることができた。


石巻市の慰霊碑の近くにはこいのぼりがあがっていた。


女川町。おかせいさんの女川丼はポスターのインパクトも手伝ってか一時間半待ち。


雄勝町エンドーすずり館に展示されている被災硯。工房にあった先代作の約100点の硯はすべて流された。たまたま別の場所に置いてあった硯だけが後日見つかった。


大川小学校。ここから海は見えない。崩れた校舎のあとがなければ、津波が来たとはにわかに信じがたい。


残った壁に、校歌の歌詞が書いてあった。


船がゆく 太平洋の
青い波 寄せてくる波
手をつなぎ 世界の友と
輪をつくれ 大川小学生
はげむわざ 鍛えるからだ
心に太陽 かがやかせ
われらこそ あたらしい
未来を ひらく


仮設店舗で営業している気仙沼市の南町紫市場。この地域のかさ上げ工事はこれから。せっかく再開した店舗も移転を迫られることになる。

 


南三陸町防災対策庁舎。付近は立ち入り禁止になっていた。国道の向かい側から合掌。


陸前高田市、奇跡の一本松。その奥はユースホステルとして使われていた建物。

 


震災のあとを遺構として残すことについては、地元のなかでさまざまな議論があると聞く。


けれども、東日本大震災から5年が経ったいま、東京オリンピックにわく都心部では、東北の被災地のことを思い出す機会は少なくなり、自分たちもいつか自然の脅威にさらされることを忘れがちだ。当事者以外の者にとっては震災遺構を通して、被災者の方の気持ちを推し量ること、これから来る災害に備えることができるのも事実だ。


目にするたびにやりきれない遺族の方もいるかもしれないと思うと、言葉もないのだけれど。


もっとも、震災のあとを伝えるのは、こうした遺構ばかりではない。
車で被災地を回ってみると、あちこちに寸断された鉄道があり、津波浸水区域という標識があり、傾いた道路標識があり、かさ上げ工事の様子が見える。


2日間に渡って何時間もの間、車で移動していたが、その間、途切れることなく震災のあとが目に入ってきた。ふだん私が動きまわっている関東首都圏よりもずっと大きな範囲だ。特定の地域だけでボランティアしていたときには実感しにくかったが、こうして回ってみると、津波に飲まれた範囲がどれだけ大きかったかを知ることができる。


記憶が風化していくのは自然であり、避けられないものだという人もいる。
けれども、少しでも忘れないようにつとめることはできる。経験から学ぶこともできる。
東北で地道に息の長いボランティアをしてきた友人や被災した方自身が、いま熊本で活動していることを私は知っている。

イベント・掲載情報


学習会「日本とフィリピンを生きる子どもたち-ジャパニーズ・フィリピノ・チルドレン」


昨秋、出版した拙著、「日本とフィリピンを生きる子どもたち―ジャパニーズ・フィリピノ・チルドレン」
の取材経験をもとに、日比で暮らすジャパニーズ・フィリピノ・チルドレンが抱える思いと課題についてお話をさせていただきます。

主催 ストリートチルドレンを考える会
日時 3月18日(金) 午後7時〜8時45分
場所  池袋・がんばれ!子供村2階
参加費 ワンコイン=500円 
    (軽いラテンディナーとドリンク付)    
申込  info@children-fn.com へ「3/18」と書いて、
     氏名と人数をお送りください。
   ※料理とドリンクの準備のため、できるだけ事前に申込をお願いします。


※「日本とフィリピンを生きる子どもたち‐ジャパニーズ・フィリピノ・チルドレン」は以下のメディアでご紹介いただいています。※


◆「しんぶん赤旗」2015年1月29日号の読書欄、本と人とでご紹介いただきました。


「女性&運動」2月号
ジェンダーNOWで、本書を書くまでの経緯について執筆しました。


「サイゾーウーマン」

インタビューコーナーで、ジャパニーズ・フィリピノ・チルドレンの抱える問題についてお話しさせていただいています。


前田ムサシさんのブログ
「フィリピン母ちゃん奮闘記」の著者でもある、前田ムサシさんのブログでご紹介いただきました。
前田さんの漫画は執筆中も何度も読み返していたので、光栄の一言につきます!
前田さんのブログ記事はどれもおもしろいですよ。


◆ふぇみん2016年2月25日号


Mネット184号 書籍紹介

プロフィール

野口和恵

フリー編集者・ライター。児童書編集にたずさわるかたわら、国内外の子どもを取り巻く問題について取材。

著書に「日本とフィリピンを生きる子どもたちージャパニーズ・フィリピノ・チルドレン」(あけび書房)がある。


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